死ぬ直前まで寅さんのイメージを守った渥美清の遺言

ありえへん∞世界で紹介

「男はつらいよ」の寅さんを演じた渥美清は、

1996年8月17日、この世を去った

この訃報は世間が知る3日前に既に渥美清は この世を去っていた

しかもその事実は、山田洋次監督や出演者、スタッフにさえ知らされなかった

 

1928年、渥美清は上野で誕生した

父:友次郎は新聞記者だが、ほとんど仕事が無く、

母:多津の内職で生計を立てていたため、

幼い頃は満足に食べることもできない貧しい暮らしを強いられた

そんな中、渥美は露店で物を売りさばくテキ屋に魅了される

テキ屋の歯切れの良い楽しい口上に渥美は心を奪われた

1945年、終戦の年に中学を卒業した渥美は、上野の闇市でテキ屋として働く

23歳の時、浅草のストリップ劇場でコメディアンとして役者人生をスタート

渥美はテキ屋の口上で培った話芸でメキメキと頭角を現していき、

25歳で浅草イチと言われたフランス座に座長として招かれた

しかしフランス座の座長に就任して1年後、突如 結核に襲われる

渥美は成功率50%の手術を受け、右肺を全摘出

手術は成功し何とか一命をとりとめた

術後は隔離された空気の綺麗な施設で療養し、闘病生活は2年半に及んだ

片方の肺を失い療養中にもかかわらず渥美は、

結核にかかり絶望する患者たちを笑わせ勇気づけた

28歳で芸人に復帰

それまで芸の肥やしと欠かさなかった酒やタバコを止め、

演技力を高めることを追求

30代になった渥美は、活躍の場を舞台からテレビに…

コメディをはじめ、テレビドラマや映画に次々と出演

 

1968年、渥美を主役に今までにないドラマを作ろう、という話が持ち上がった

渥美はプロデューサーと共に新進気鋭の監督:山田洋次に企画を提案するため、赤坂のとある宿を訪ねた

渥美は幼い頃に憧れ、働いた経験もあったテキ屋の役をやりたい、

と山田監督の前で口上を披露し訴えた

 

1969年8月27日、映画「男はつらいよ」の第一作が、封切られた

渥美が演じる寅さんに多くの人が魅了され映画は大ヒット

2年間に5作品も立て続けに公開

その後、興行収入は一作当たり10億円を超えるまでに

シリーズは最終的に全48作になるロングヒット

総観客動員数は約8000万人

 

一見順風満帆な役者人生…しかしその裏側で大きな苦しみを抱えていた

寅さんがヒットを重ねると同時に、虎さん以外の役を演じる機会が減少

何本か違う作品に出演しても寅さんほどの評価を得ることは出来なかった

 

渥美は新作が公開される度に劇場に普通の客として足を運んだ

自分の演じる寅さんを楽しそうに観て喜ぶ観客のため、

どれだけ苦しくても寅さんのイメージを守り続けていこうと心に決めた

寅さん以外の作品の出演を減らし、ロケ地で大勢の人に囲まれても

寅さんと同じようにように常に笑顔で愛嬌を振りまいた

そして寅さんのイメージを守るため、自分のことをほとんど語らなくなった

渥美は家族のことや住んでいるところなどプライベートな情報は、

寅さんのスタッフにさえ話さなかった

スタッフがタクシーで家に送る際も

途中で降りて1人でタクシーを乗り換え帰ったという

 

44作目を迎えた1991年、肝臓がんに襲われる

肺が一つしかなく体力の無かった渥美

何とか仕事を続けるも1994年に残された肺にがんが転移

しかし渥美はスタッフにさえ がんのことを言わなかった

1995年、最後の作品となる48作目

医者も出演できたのが奇跡と言うほど悪い様態の中でロケに臨んだ

体重も落ち息を吸う度に肺に痛みが走る

以前のように見物客に笑顔で手を振る事もできない…

渥美は見事に寅さんを演じきった

 

48作が公開された半年後の1996年、

渥美は7月に手術を受けるもすでに手の施しようがない状態

「俺の痩せ細った死に顔を他人に見せたくない。骨にしてから世間に知らせて欲しい」

寅さんのイメージを守ろうと言葉を遺した

彼の遺言通り、3日後に世間にその死が伝えられた

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