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●クロマティに殴られた中日:宮下昌己は今…米問屋を経営し、年商6000万円

 

1987年6月11日、巨人 対 中日、バッターは助っ人:クロマティ

宮下が投げたボールは、クロマティの背中に直撃

激怒したクロマティは、マウンドに突進し、ぶん殴られた

 

1991年、戦力外通告、プロ野球界から姿を消した

 

現役を退いた宮下は、吉祥寺でステーキ店を開業も5年で閉店

その後、チラシのポスティング、スーパーの売り子など職を転々

 

10年前、やむなく始めたのが、経営不振だった父親の米問屋

宮下は米を保管できればOKと店を構えることなく

月1万円でコンテナ倉庫を借りて、極限まで経費削減

 

米を配達するときに配る名刺には、

クロマティに殴られている宮下の写真を印刷している

この名刺を見せると営業の話に入りやすいという

結果、取引先は50軒以上

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アウト×デラックスで紹介

●声出しだけで年収3600万円を稼いだ元プロ野球選手:小田幸平

 

1997年、巨人軍にドラフト4位で入団

落合監督に引っ張られ中日ドラゴンズに移籍

 

常に控えキャッチャーでほとんど試合には出ていないにもかかわらず

プロ野球の平均選手寿命が9年と言われる中、小田は17年間 現役で活躍

 

ムードメーカーとして選手や監督、ファンに愛され続け、

結果、2007年には年俸3600万円を契約

 

2004年、清原に「俺より髪が長いな」と言われ、スキンヘッドに

 

さらに清原の凄まじい指でカンチョーされ流血、4回 病院に行った

 

スタメン出場の直前、スリーパーホールドをかけられ落とされた

 

現役実働年数:17年(うち補欠17年)

通算打率:1割9分7厘 通算本塁打:2本

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野球を始めたのは小学1年生の時

原辰則の甥っ子である菅野の夢は、巨人でプロ野球選手になることだった

大学まで野球をしていた父:隆志さん、息子への指導は厳しかった

チームの練習が終わっても、休む暇もなくダッシュ練習

ただ走らせるのではなく、様々な動きを付けて走らせていた

そうすることでバランスよく筋肉を鍛えるのが狙いだった

試合で良い結果を残しても父から褒められることはなかった

父は菅野に必ずノルマを課していた

例えば、今月のノルマは、毎朝 公園を10周走ること

どんなに頑張っても次から次へと厳しいノルマが課せられる

歯を食いしばりひとつひとつやり遂げていった

 

しかし父の指導でどうしても嫌な事があった

家族がそろい普通なら楽しいはずの食事

菅野に出されるのは決まって てんこ盛りのご飯

それを2杯食べるのがノルマだった

目の前では父が見ている…次々と唐揚げが積み上げられていく

当時、体が小さかった菅野、

プロ野球選手になるためには大きな体にしなければならない

その思いから父は、食事の時も厳しかった

 

中学生になると厳しい父の教えでチームのエースに

関東大会ベスト8に貢献、それでも父は褒めなかった

高校は父:隆志さんと叔父:原監督の母校:東海大相模高校に進学

すぐに原監督の甥っ子として注目された

しかし1年生の時、右肩を痛めてしまい思うように投げられなく絶望感に襲われる

悩んだ末、父に電話した「俺…もう野球やめたい…」

「何を言っているんだ智之」

「肩痛いし野球 やめるよ俺」父に初めて野球をやめたいと伝えた

すると「何を甘ったれたこと言ってるんだ!お前はそこまでの選手だったのか!やめちまえ!」

 

父が厳しくするのには理由があった

父もかつてプロ野球選手を目指しいていたが、夢は叶わなかった

プロになる難しさを身を持って知っているからこそ、

父は夢を追う息子を思い、あえて厳しく接した

その日以来、菅野は一度も弱音を吐くことはなかった

 

東海大学の3年生の時、最速157キロをマーク

それでも父は褒めなかった

大学4年の時にはプロ注目の選手としてドラフト1位候補に

夢は叔父:原監督がいる巨人に入ること

ドラフト会議、巨人と日本ハムの2球団が1位指名

抽選の結果、交渉権は日本ハムが獲得

ドラフトから数日後…両親のもとを訪ねた

「俺、自分の夢を貫きたい、もう一年待つよ」

1年間の浪人生活を決意

巨人に入れる確証はない…公式戦で投げる事も出来ない…

それでも黙々とトレーニングを続けた

2012年、2度目のドラフト会議、ついに夢の巨人入団を果たす

 

1年目からチームトップタイの13勝を挙げた

それでも父は褒めなかった

 

そんな父がはじめて褒めてくれた試合がある

それは2013年11月2日、日本シリーズ 第6戦 楽天vs巨人

マウンドには無敗の田中将大

王手をかけられ負けられない巨人

菅野は田中と投げ合った

菅野はこの年田中に投げ勝った たった一人の選手となった

試合後「智之はすごい。あいつは本当にスゴイ」

厳しかった父がはじめて菅野を褒めた

その夜、母から電話で父の話が伝えられた

「智之、お父さんがね「あいつは凄い 凄い」って褒めてたわよ」

「本当に…?」

出来れば直接聞きたがったが、頑張ってきて良かったなと思った瞬間だった

父は言う「智之が野球をやめるときに面と向かって褒めたい」

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有吉ゼミで紹介された結婚できない元巨人:木田優夫

1986年、巨人にドラフト1位で入団

150キロの速球を武器に先発、中継ぎ、抑えと何でもこなし、

その後、日本人8人目のメジャーリーガーとして海外でも活躍

そんな木田は、いまだに独身

その理由は、自分のペースを変えたくないから

 

●ペースを変えられたくない元巨人:木田優夫

結婚願望はあるが、野球のペースを乱す女性が許せない

 

・手作り弁当を捨てる

それは木田が最も輝いていた頃…

彼女の家に宿泊した木田、翌日は試合の為、新幹線で広島へ

「明日のご飯はどうする?」「明日 昼は新幹線で食べるから大丈夫」

しかし翌朝、彼女が弁当を作って渡すと

「はぁ?何 作ってんだよ。何でお前に食べるもの決められなきゃいけないんだよ」

俺のペースを乱さないでくれよ、と

彼女が早起きして作った弁当は、中身を捨てたという

 

・デートの約束NG

女性とのデート中

「土曜の夜って空いてる?一緒に行ってみたいイタリアンがあるんだけど」

「ごめん 約束は出来ないな。予定決めちゃうとペース乱れちゃうから」

試合で打たれたりすると人と会いたくなくなる時が多いから

 

こうして木田のペースに付いていけず女性は去っていく

2014年9月、28年間の現役生活から引退した

 

そんな木田の理想の女性は、宇宙戦艦ヤマトの森雪

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バース・デイで紹介

かつて巨人のリリーフエースとして活躍した角盈男の次男:晃太は、

熾烈な競争を勝ち抜きプロ野球選手となった

そんな晃太は、2014年 千葉ロッテから戦力外通告を受けた

 

●23歳で戦力外通告を受けた元巨人:角盈男の次男

 

息子にとって父は、幼い頃からの憧れの存在だった

父のようにプロ野球選手として活躍する事が夢だった

父の下で幼い頃から野球を始めた晃太は、親譲りの野球センスは備わっていた

すでに引退していた父は、晃太の夢を後押しした

中学でクラブチームに入ると父もコーチとして加わり、

息子はバッターとしての才能を開花させた

高校は野球の名門 東海大学付属相模高校に進学

甲子園出場はならなかったが、

168㎝の小柄な体で現 巨人の太田を押しのけ4番バッターを務めた

 

2008年、千葉ロッテに育成ドラフト3位で入団

育成選手は背番号3ケタ、出場できるのは2軍の試合のみ

そんな厳しい環境で晃太は出場機会を増やし、

3年目 セカンドで2軍のレギュラーとなった

2012年には支配下登録選手に昇格

背番号も2ケタとなり、1軍に上がれる権利を手にした

しかしウリだったはずのバッティングに苦しみ、思うような成績を残せなかった

 

そして2014年10月5日、千葉ロッテから戦力外通告を受けた

晃太は残されたチャンスであるトライアウトに全てをかけたが、

結果を出せず球団からの声はかからなかった

 

2015年1月、野球を諦めきれない晃太に思わぬオファーが舞い込んだ

独立リーグで新設される武蔵ヒートベアーズへの入団が決まった

もう一度プロ野球へ復帰するため、諦めない道を選んだ

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