1990年代、アナウンサーとして日テレの顔を務めた町亞聖
2011年、突如 日本テレビを退社
●就職
1995年、日本テレビのアナウンサーとして就職
町が18歳の時に母がくも膜下出血で倒れ、
後遺症により右半身マヒ、言語障害、車いすの生活に
母の介護で、介護問題を伝えられる仕事がしたいと
アナウンサーを目指すきっかけとなった
●高額の医療費
母が倒れた今、弟と妹の学費、生活費、母の医療費を稼ぐのは長女の役目
アナウンサーの激務と終わらない介護……
介護をして8年目、町が26歳の時、
突然、母が子宮頸がんの末期と診断された
言語障害の母は、自分気持ちを周りに伝えられず、がんの判明が遅れた
気付いた時には手術すらできない状態
できるのは終末期医療のみ
1999年11月9日、母 永眠(享年49)
●局アナの失職
29歳の時、ある日 上司に呼び出された
「異動になったから」アナウンス部からの異動の宣告だった
医療や介護の番組企画を通していた町に、
アナウンサー以外の可能性を見出していた上司は、
彼女への新たなミッションとして異動を命じた
まだ若かった町は、その意図を読み取ることができずに、
アナウンサーの仕事を奪われたと…
その後、部署を異動してからの10年間、
いつかアナウンサーへ戻るため毎年 異動願を出し続けた
気付けば38歳…ある情報番組の制作スタッフとなった
出演者の弁当、控室などアナウンサー時代には
用意されていたものを用意する側に
ストレスを抱えながら働く町は、うつ状態に
突然 涙があふれ出して止まらず人気のないところで泣く毎日
休日は家から一歩も出られない状態
●峰竜太
町の介護生活をしていた数少ない芸能人のひとり
埼玉県の外れで行われた母の葬儀に芸能人で唯一参列
町のことを常に気にかけてくれていた
アナウンサーとして最後の収録日、「町さんなら大丈夫」
峰竜太は多くを語らず優しく声をかけてくれた
日本テレビ入社から16年、会社を辞めた
町はフリーとしてアナウンサーに返り咲いた
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