蛭子能収を支えた前妻:貴美子さんの愛

金スマで紹介された蛭子能収の半生

1947年10月21日、蛭子家の二男として生まれた

生まれ育ったのは、長崎県長崎市 海沿いにある漁師町

父も兄も漁師、しかし蛭子は魚が大嫌いだった

蛭子は幼い頃から絵を描くのが得意だった

1963年、長崎商業高校に進学すると美術クラブに入った

進路相談で商業デザイナー、看板のデザインを描きたいと希望

先生に紹介され就職したのは、地元の看板屋

その仕事内容は、デザインと関係ない看板の組み立てや取り付け作業ばかり

その頃 誘われたのが、月に一度小学校の教室を借りてマンガを読んだり、

自作のマンガを見せ合うサークル活動

そこで出会ったのが、月間漫画ガロに連載されていた つげ義春の「ねじ式」

すっかりマンガに魅了された蛭子は、時間を見つけてはマンガを描くようになり

いつしか夢はマンガ家へと変わった

1970年、5年勤めた看板屋を辞め上京

出版社や映画会社などの就職口を探したが、応募資格は大半が大学卒

職もお金もない蛭子が辿り着いたのは、ギャンブルだった

文無しになった蛭子は 結局、看板屋に就職した

そこには蛭子を怒鳴り散らす先輩や上司がいた

そのストレスをマンガに向け、増々上達していく

 

高校時代 よく通っていた画材屋の娘:貴美子さん

特に好意を持っていたわけではなかったが、

地元の友人が蛭子が寂しい思いをしているから、

と貴美子さんに手紙を出す事を勧めた

こうして貴美子さんとの文通が始まる

文通が1年も続き、蛭子が24歳になった頃、

貴美子さんが姉の上京をキッカケに東京へやって来た

わずか数回のデートで「俺と同棲しない?」遠回しのプロポーズだった

2人はお互いを「おぬし」と呼び合い、ボロアパートでの貧乏生活が始まった

彼女の為にも何とかマンガ家として成功しなければならない

蛭子は勤めていた看板屋を辞め、漫画を描いては投稿する日々を続けた

それでは食べてはいけないのでチリ紙交換を始めたが、

稼ぎの大半はボートレース場に消えた

それでも貴美子さんは何も言わず一生懸命働き、

マンガ家を目指す蛭子を支え続けた

長女:史英が誕生した1972年、2人は結婚

蛭子は定職もないまま一家の大黒柱となってしまった

1973年8月号の月刊漫画ガロに入選しマンガ家デビューを果たす

入選はしたもののマンガの原稿料はゼロ

蛭子は掃除用品の営業マンとして働き始めた

本格的なサラリーマン生活を始めると1974年、長男:一郎が誕生

収入が少なく子供の給食費も払えなかったという

もうマンガ家は諦めようと思っていた頃、マンガの依頼がきた

当時 自動販売機に入っていた成人男性向けのエッチなマンガだった

自分の描きたいマンガとは違うと断ろうと思ったのだが、

高額な原稿料に目がくらみ、依頼を受けた

その後、コンビニが普及し、

それまで自販機のみで販売されていた成人向け雑誌が

コンビニでも売られるようになるとマンガの依頼が殺到

ついには単行本まで出版される事に

こうして念願のマンガで生計が立てられるようになった蛭子は、

1980年、33歳で清掃用具会社を退社した

 

「初めまして、私 ガロを観て興味を持った人間なんですが…」

蛭子のマンガに惹かれ電話をかけてきたのが、

劇団 東京乾電池の座長:柄本明

「劇団のポスターを描いてくれませんか?」

その後数回に渡り、東京乾電池のポスターを手掛けた

そしていつものように出来上がったポスターを劇団に届けた時のこと、

「蛭子さん、今回の芝居 ちょっと出てみない?居るだけで面白いからさ」

居るだけで面白いから、ただそれだけの理由で蛭子は舞台に出演

柄本の見込んだ通り、独特の存在感を放っていたという

この舞台をたまたま見ていた人物が、

当時「笑っていいとも!」のプロデューサーを務めていた横澤彪

「蛭子さん テレビに出てくれませんか?」

居るだけで面白いからという理由で「笑っていいとも!」にレギュラー出演

さらに1987年、ドラマ「教師びんびん物語」に出演

そして「スーパーJOCKEY」にレギュラー出演

 

1998年11月、行きつけの雀荘で麻雀を楽しんでいた

すると賭け麻雀の現行犯で逮捕

賭けていた金額が少なかったことから

翌日すぐに釈放されたものの芸能界ではトップニュース

結局 芸能活動を自粛せざるえなくなった

 

1999年5月、貴美子さんが台所で吐血し、突然 倒れた

すぐさま病院へ運び込まれたが、検査の結果、

食道除脈流、子宮筋腫、脾臓の腫れなど様々な病気が判明

「奥さんは運よく助かっている状態ですから退院しても無理は禁物ですよ」

退院の際に入念な説明を受けたのだが、

元気な貴美子さんを前に、退院するな否や映画館へ誘い出したり、

旅行に出かけるなど、それまでと変わりなく楽しく遊んだ

亡くなる直前まで家族の前で辛そうな素振りを見せなかったという

 

2001年8月5日、前日には蛭子と映画に行っていた貴美子さんだが、

「今日はちょっと調子が悪いわ。デパートに行くの止めてもいい?」

「じゃあ明日にしようか?」「うん」

「それじゃボートレースに行ってくる」

貴美子さんを家に残し、ボートレースに出かけた

それは家を出てから数時間後のことだった

「ママが倒れたの、今すぐ帰ってきて」長女からの電話だった

蛭子が病院に着いた頃には、貴美子さんは意識不明の状態

蛭子は泣き崩れながら、なぜ妻を連れまわしてしまったのか…後悔だけが募った

結局、目を覚まさないまま2日間が過ぎ、貴美子さんは逝った

失って初めて気づいた妻の存在の大きさ

この日以来、蛭子はとてつもない喪失感に襲われた

家中を明るくしてくれた貴美子さんの笑い声、

それを補うかのように家中の伝記を一日中点けたままにした

 

今 蛭子は月に一度 妻:貴美子さんが眠る墓を訪ねている

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