芸能界イチの適当男:高田純次の意外な過去

金スマで紹介

 

「高田純次のチンケな自伝」を出版

この本の出版にあたり高田に取材を依頼したのが、

高校生の同級生であり産経新聞出版の元社長:山本泰夫

 

 

●芸能界イチの適当男:高田純次の意外な過去

昭和22年1月21日、東京都調布市で高田は生まれた

東京ガスのサラリーマンとして働いていた父:清次

兄が1人いたが、病で幼くして他界

 

・複雑だった幼少期

昼間、家には祖母と純次だけ…母の姿はなかった

純次が3歳になったある日のこと、

父に手を引かれ、自宅から遠く離れた病院に

病室に入ると知らない女性が横になっていた

女性は純次を見ると突然 泣き出した

(いったいなぜ あの女性は泣いているのだろう)

それからしばらく経ったある日、父が、

「あの病院で泣いていた女性 覚えているか?」「うん」

「あの人なぁ、お前の母ちゃんだ。母ちゃんな、天国に行ったんだぞ」

入院生活を送っていた純次の母:福江は肺炎を患い、32歳で他界

 

そして母の死から4か月後、やって来たのは父の再婚相手:三枝

だが純次の世話をするのは、もっぱら祖母

祖母は父の再婚相手である継母と折り合いが悪く、毎日のように言い争い

純次は祖母に味方し、意識的に継母を遠ざけた

高田家では実母の話はタブーとなり、写真すら無かった

純次は母親に甘えるといった感情が屈折していた

そんな複雑な家庭で育った純次が歪んでいたかと思えば、そうではない

小学校、中学校ともトップクラスの成績で「神童」と呼ばれるほどだった

性格も明るく人気者、

しかし家庭環境の影響からか時々ふと心に穴が開くような感覚があった

そんな時は(気にするな。思い詰めるな)と言い聞かせていた

 

・受験の挫折

1962年、府中高校に進学

あの3億円事件が起きた場所のすぐ近く

純次の年代は全て捜査対象に上がった

バイクに乗っていた純次の家には警察の捜査が来たという

高校時代の純次は、勉強そっちのけで青春を謳歌

麻雀が始まると朝まで喋り続ける事から、ついたあだ名は「国領のニワトリ」

山本によると、人を笑わせた後に どこか冷めた部分が見え隠れする奴だった

 

高校3年生の時、純次の人生を変える大きな挫折待っていた

六大学に入って父が勤めていた東京ガスに入れてもらう、

という大まかな考えがった

しかし受けた大学 全てが不合格

その後、浪人するもののどの大学にも受からなかった

受験に失敗した純次はデザイン専門学校に進学

卒業後は、特にやりたい仕事があるわけでもなくアルバイトで生計を立てていた

そんなある日のこと、デザイン専門時代の先輩と再会

「ちょっとお願いしたいことがあって…実は舞台の仕事をやってるんだけど…」

頼まれたのは舞台のポスターのデザイン、

そして通行人役としての出演も頼まれた

 

舞台に興味を持った純次は、先輩の誘いで

六本木にあるアンダーグラウンド自由劇場に足を運んだ

そこはアングラの言葉の由来となった場所

25歳にして初めて触れた情熱、それはどこか冷めていた純次を魅了した

1972年、オーディションを受けた純次は自由劇場に参加

この時、同じく新人の中にいたのがベンガル、柄本明

そんな仲間たちと共に稽古に励む毎日

台本はなく、この時のアドリブ芝居がタレント:高田純次の基礎となる

現在の妻:勢子と結婚

そのため他の研究生たちとは違い、夫として妻を養わなければいけない

稽古が始まる昼までの時間を毎日アルバイトにあてた

だがその収入だけでは2人の生活費が稼げるはずもなく、

日本舞踊の師範免除を持っていた妻:勢子さんの収入に頼りきっていた

そして純次は、芝居を辞める決断をする

1973年、26歳の時に宝石の卸会社に就職

宝石デザイナーとして働き始めた

上司にも気に入られ、入社2年でデザイン室の主任に抜擢

1976年、長女が誕生

働いて2年で200万円の貯金も出来た

 

・転機

1977年、30歳の時、下請けの会社の受付嬢を食事に誘った

やって来たのは新宿にある居酒屋ボルガ

当時売れない演劇青年が集まり、演劇論を熱く語る居酒屋だった

すると劇団時代の仲間:ベンガルと柄本明に再会

彼らはこの前の年に劇団「東京乾電池」を旗揚げ

何故か女の子も同席のまま一緒に飲むことになった

2人が熱くかわす演劇論に純次は全く入る事が出来ず、

ただただ黙って聞く事しかできない

 

宝石会社に勤めて、そこそこの収入はある、子供も生まれ女房も満足している

しかし俺は本当に自分のやりたいことをしているのだろうか?

ただ単に女房と子供を養っているだけではないのか?そんな風に考えてしまった

燃えている2人が妬ましく自分がみじめに思えたという

 

それから1ヶ月後、柄本とベンガルに呼び出された純次

「なぁ東京乾電池の今度の公演 出てくれないか?」

「3ヵ月だけ会社を休んでくれ」と熱い説得を受けた高田は、

「分かった。やるよ。会社辞めるから」と了承した

1977年9月、退職届を出し、純次は安定した生活を捨てた

「辞めた。もう一度芝居がやりたくて」妻には事後報告となった

こうして30歳で東京乾電池に参加した

 

マンションの頭金として貯めていた200万円は、すぐに底を尽いた

芝居の稽古が終わった夜7時から朝6時まで工事現場のアルバイトをして懸命に働いた

家族のため、睡眠は毎日3時間、疲労がたまり円形脱毛症にもなった

純次は適当とは程遠い、責任感の強い男

当時、純次が住んでいたのは家賃2万2千円の風呂なしアパート

お金を少しでも節約するため、妻と娘だけを銭湯に行かせ、純次は台所で体を洗っていた

 

ある日のバイトのこと、純次がつるはしで穴を掘り、

掘り出した土は板でとめて崩れないようにしていた

しかし突然 土砂が崩れ、純次と作業員が生き埋めとなった

穴の深さは5m、幸運にも純次は助け出された

家族のために死ぬわけにはいかない

純次は柄本明に紹介してもらいテレビ局で大道具の仕事を始める

テレビに出演するまでの数年間、この仕事で家族を支えた

 

純次が所属する東京乾電池が大きな注目を集める転機が訪れる

淡谷のり子や美輪明宏などがステージに立ち、

アングラ小劇場の聖地:渋谷ジァン・ジァンでの公演が決まった

すると観客を収容しきれないほどの人気劇団になっていった

 

東京乾電池の知名度が上がり、

純次とベンガルに初めてテレビドラマのオファーが舞い込んだ

 

1980年、33歳の時にバラエティ番組からオファーが来た

「笑っていいとも!」の前身となる「笑ってる場合ですよ!」

その後 番組は「笑っていいとも!」に衣替えとなったが、

純次のレギュラー出演は継続

 

1981年5月に放送が開始された「オレたちひょうきん族」

純次はブラックでビルとして抜擢された

しかし1回出演しただけで、おたふく風邪にかかり緊急降板

その代役に抜擢されたのが、明石家さんま

 

そして1985年、「天才・たけしの元気が出るテレビ!!」の出演が決まった

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