昭和の名人と言われた桂枝雀を師匠に持つ
幼少期を大阪市住吉区我孫子で
両親と家族3人仲良く暮らしていた
小学校4年生ころ、父はサラリーマン、
タクシーの運転手、屋台のうどん屋と職を転々と変えていた
そして父は、大のギャンブル好き
そのことで両親は、いつもケンカしていた
●母の失踪
小学校6年生になったばかりの5月の
連休が始まる前の三者面談が行われた
「母ちゃん、俺 友達と遊んでから帰るわ」
「じゃ おかあちゃん先に帰ってるから。きぃつけて帰ってきぃや」
と言い残し、母は失踪した
理由は父のギャンブルで作った借金、
大学での初任給が5万円の時代、借金が1000万円もあったという
●父に殺されかける
母が出ていった後も、父はギャンブルをやめなかった
その結果、借金取りが家に来るように
コツコツ稼げない父が、一発逆転のために策を打った
ある日、学校から帰ると玄関に見慣れない水槽があった
「ただいま、おとん、この魚なんなん?」
「ピラニアや。ピラニアの養殖 始めたんや。めっちゃ儲かるで」
酸素を入れなかったため、ピラニアは全滅した
この日の夜、体に重みを感じて目が覚めた
すると父が包丁持って馬乗りになっていた
「何しとん?」「すまん、俺と一緒に死んでくれぇ」
「嫌や!ボクまだ死にたない!まだ生きなあかんねん」
「すまんなぁ、子供に刃物 向けるなんて」
結局 父は心中を思いとどまった
そして我に返った父は、翌日 出ていったきり帰ってくることはなかった
12歳にして父にも捨てられた
近所のおばさんから面倒見てくれて食べるのには困らなかった
さらに父が時々、ポストにお金を入れてくれた
そんな事情を知らず、昼夜を問わず頻繁にやって来る借金取り
辛いことがあっても明るく笑顔で過ごした
マイナスな境遇を嘆かず、笑いに変える努力
●人前で芸をする喜びを知る
ある番組の公開収録へ、
そこで西城秀樹と一緒に歌うことになった
翌日の学校では、とんでもない反響だった
人生は変わった
テレビに出ることに味をしめた雀々は、
15歳でTBS「ぎんざNOW!」に出演
素人ながらレギュラーに抜擢
ある日、部屋でラジオを聞いていると落語が流れてきた
上方落語の「たぬさい」を聞いた雀々は、
「これ俺でもできるんちゃうかな」と思った
録音した「たぬさい」を紙に書き起こし独学で練習
そして同級生の前で披露した
すっかり自信をつけた雀々は、
素人が参加できる演芸番組で「たぬさい」を披露
するとプロの審査員からも絶賛
そして雀々は、将来 落語家になろうと決意した
●桂枝雀に弟子入り
師匠に桂枝雀を選んだのは、ご飯を食べさせてくれそう、だったから
15歳のときに枝雀師匠に弟子入りを志願
しかし、断られた
「働きながらでも定時制に通える。卒業してから また来なさい」
雀々は師匠の言いつけを守り、仕事をしながら定時制の高校へ進学
1年が経った頃、師匠の楽屋に呼ばれ、1977年6月1日、弟子入りした
雀々という名前は、枝雀が誰かに付けたかったという秘蔵の名前だった
1981年、ABC漫才・落語新人コンクール最優秀賞を受賞
レギュラー9本、月収200~300万稼いだ
●2002年、雀々の楽屋に訪ねて来た母と再会
(1034)