オー・ギャマン・ド・トキオの木下威征
1972年、東京都多摩市に生まれた
会計士の父、母親と妹の4人家族
幼い頃は、山に秘密基地を作ったり、野球、サッカーで遊ぶガキ大将
中学生に入ると、生意気、それだけの理由で先輩から制裁を食らった
先輩だろうが、タイマンで仕返し、不良の道を突き進んでいった
中学校は、何とか卒業
高校に入学しても変わらず、
学校には行かず、友人の家を溜まり場に麻雀三昧
「腹減ったな」「じゃあ俺が何か作ろうか?」と
キッチンを借りて、余っているご飯と
その辺にある調味料をぶち込んでチャーハンを作った
友人たちは口々に美味いと言いながら食べた
自分の料理で人と喜ばせるって楽しいなという思ったという
●逮捕
当時、暴走族の行動に歯止めをかけるべく警察は必死だった
木下の高校にまで警察はやってきて不良たちを一斉検挙
もはや見捨てられてもおかしくない状況に母は、
「ウチの息子が本当に申し訳ありません。いい加減にしなさい!」
泣きながら木下の頬をはたいた
木下は、ハッととした
思っていた以上に老け込んだ母を見た瞬間に、
いい加減 目を覚まさなきゃという思いを起こしてもらった
●料理の道へ
しかし不良をやめても やるべきことは見つかなかった
そんな迷いの中、ふと見ていた雑誌の広告に目を奪われた
高校卒業後、料理専門学校の辻調グループ エコール辻東京に入学
木下が入ったフレンチコースには約300人のライバルがいた
中学、高校と学校をさぼったツケが回り、苦悩することに
絶対に負けてたまるか という負けず嫌いの根性で必死に努力を重ねた
成績上位者のみが行けるというフランス留学の切符を獲得
●フランス留学
半年間、本場フランス校での授業を経て、星付きレストランで研修にでた
そこで木下は人種差別の壁に直面する
一様に日本人をバカにするフランス人
だが木下は、ここでも負けん気を発揮
徐々に仕事ができることを周りが認め始め、
初めてアントルメッチェ(付け合わせ)の担当に抜擢された
その日は、猫の手も借りたいほどの忙しさだった
木下は忙しさにかまけて、
完全に温まっていない付け合わせを出してしまう
「日本ではこの程度で温まったとなるのか!お前は出ていけ!」
「すみませんでした。もう一度やらせてください」
「我々のレストランは星付きの有名レストランだ。今日来ていたお婆さんは、孫の誕生日に店を予約していたんだ。そんな思いの人に冷めた料理を出してみろ!お客様はみんな特別な思いで料理を楽しみにしてるんだ。お客様のことを考えろよ!」
一食一食に全力をかけて料理を届ける
この22年前に教わったことが、木下の信条となっている
その後の働きでシェフたちの信頼を勝ち取り、
フランスで得た経験を日本に持ち帰る
帰国後、フランス料理店オーバカナルから声がかかり、
そこで数年間修行、料理人として名声を上げた
●36歳でオーナー店を出店
名前は、オー・ギャマン・ド・トキオ
直訳すると東京のいたずら小僧
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