名曲「ハナミズキ」を生んだ一青窈の家族の物語

“君と好きな人が百年続きますように”

●名曲「ハナミズキ」を生んだ一青窈の家族の物語

1970年、台湾人の父:顔恵民と日本人の母:一青かづ枝は、東京で出会って結婚した

その年、長女:妙が生まれ、1976年9月20日に次女;窈が誕生

一家は父の故郷 台湾で暮らすように

父:顔恵民は台湾で金鉱山を経営する五大財閥のひとつ、顔一族の長男

日本から言葉も風習も違う台湾に嫁ぎ、大財閥の長男の嫁となったかづ枝

夫のために台湾料理を一から習得し、いつも美味しい料理を作ってくれた

1981年、窈が5歳の時に東京都世田谷へ一軒家を購入し移住

しかし父だけは台湾に残り、離れて暮らすことになった

この頃から日本での生活がしやすいようにと、

母方の姓である一青を名乗るようになった

窈が小学生のなったある日、父が突然 日本で暮らすようになった

 

たまたま行ったかかりつけの病院の検診で見つかった夫の肺がん

1983年12月17日、紹介された大学病院で詳しい検査を行った

「両方の肺ががんに侵されています。残念ですが手術は不可能です」

がんが確定した後、かづ枝は父の親族と友人らを呼んで、

本人に病名を知らせるか協議し、本人には隠し通すという決断に至った

母は父にウソの病名を伝え続けていた

当然、幼い娘たちにも父親の病名が告げられることはなかった

薄々がんに気づいている父、愛するがゆえに告知しない母

父は告知しない事への抵抗として母を無視するように

その後、国立がんセンターに転院

1984年3月、父が退院

父が母を無視するようになってからすでに1年がたっていた

1984年冬、再び入院

台湾から兄弟が見舞いに訪れ、父と母の仲について気付いた

「なぜ夫婦仲が悪いんだ?」「かづ枝はずっとだましていた。それが許せないだけ」

病状を悟ったと確信した兄弟は、父に告知した

「黙っていたのはかづ枝さん一人の判断ではない。医者と周りの者が相談した結果なんだ」

その翌日のこと、1年ぶりに父から母に声をかけた

「君が事実を言ってくれなかった、ただそれだけだよ。他に何もない。君には事実を言ってもらいたかった」

「ごめんなさい」「こっちを向いて手を握ってくれ」

夫婦の会話が戻ってから、わずか1か月後の1985年1月20日、

父はその生涯を終えようとしていた

「ごめんなさい。2人してもらっていい?」

母は父との最期の時を2人きりで過ごし、娘たちにすらその瞬間を渡さなかった

 

父の遺書が残っていた

パパは自分でもこんなに早く世の中からさようならするとは思いませんでした。窈ちゃんが成人する位までは生きられるのではないかと。これはパパの欲張りでした。妙ちゃん、窈ちゃん ケンカしてもよい。ふたりとも元気で大きくなるように。そして自分の好きなことで独立生活できるよう頑張ってください。この事が一番大切です。三人共 元気で頑張るよう。さようなら

 

一家3人での生活が始まった

母は少しでも家計の足しになればとスーパーで働き始めた

母がパートで家にいない時間が増え、中学生の姉も帰りは遅い、

父がいなくなった家は、ぽっかりと穴が開いたようだった

そんな寂しさを紛らわすために窈は父宛てに手紙を書き続けた

宛先のなくなったその手紙は、いつしか父を想う詩のようになっていった

あるクリスマスの夜、どうしても父に会いたくなった窈は、

“サンタさんへ お父さんが生き返る薬をください”を書置き、

それは母には決して叶えることのできないプレゼントだった

 

窈の中学卒業を間近に控えた1991年3月、

当時46歳だった母がたまたま受けた健康診断

「妙ちゃん、ママねぇ、胃がんになっちゃったみたいなの」

「えっ」「明日一緒に先生の話聞いてくれるかな?」

父が他界してから6年、まさかの出来事だった

医師は胃の全摘出を進めた「どうしますか?手術しますか?」

母は迷うことなく1週間後の手術のスケジュールまで決めた

窈はまだ中学生、父の時と同様、この事実を伏せることにした

結局、窈には胃潰瘍と説明した

思春期だった窈を守る、母と姉がついたウソ

母は、8時間にも及ぶ胃の全摘手術を受けた

退院後も以前と変わった素振りすら見せなかった

手術から2年がたった1993年、あちこちが痛いと言うようになったが、

2人とも再発とは夢にも思っていない

ところが定期検診に行くと医師から精密検査を勧められ、受けることに

すると写真を撮ったレントゲン技師が驚くほど、がんが全身に転移していた

がんであったことすら知らない窈に、姉はこの事実を伝えることはできなかった

検査から8日後、突然の危篤

窈に真実を伝えることができたのは、亡くなるわずか12時間前だった

「実はね、ママねぇ もう長くないんだよ」

一青窈は、あまりのショックで当時の記憶がないという

1993年3月9日、48歳で母はこの世を去った

窈は母と言葉を交わす事さえできなかった

 

●♪ハナミズキのタイトルはアメリカから日本に送られた花の名前

一青窈は、9.11アメリカ同時多発テロの映像をテレビで見ていた時、

当時、ニューヨークに住んでいた友人からメールで

「家がなくなって大変」という状況を聞いた

この事件に衝撃を受けた一青窈は、何か自分に出来る事はないか?

友人として思いを届けたい、と「ハナミズキ」を一気に書き上げた

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