演出家:蜷川幸雄の挫折

埼玉県川口市に洋服店の5人兄弟の末っ子として生まれた

 

名門 開成高校を卒業した蜷川は、

画家を目指すために

東京藝術大学 美術学部を受験するも失敗し挫折

 

1955年、劇団青俳に入団し、演劇の道へ進む

当初は俳優として活動していたが、

役者としては芽が出ず、演出の道へ

 

当時の演出家のギャラは1本40万円、

年間1本の演出しかしていなかったので年収40万円

兼業主夫として家事と育児に奔走していた

「その実態はヒモですよ」と後に語っている

 

多額の借金をして劇団を設立、1969年に演出家デビュー

スパルタ式の演出で数々のヒット作を生み出した

 

1974年、ロミオとジュリエットで商業演劇デビュー

翌年から、リア王、オイディブス王、王女メディアを連発

「僕の芝居は観客の人気ベスト1で批評家のワースト1」

大手全国紙にもロミオとジュリエットを酷評した記事が掲載

酷評されるのは仕方がないが

「批評するポイントがズレている!そのくせつまらない作品は褒めている」と猛反発

大手全国紙の批評について何がおかしいのかを

書き記した手書きのニナガワ新聞を作成し、劇場のロビーに貼りだした

 

そこでプロデューサーが「じゃ一度 外国に行こうよ」と誘った

1983年、ギリシャ、イタリアで王女メディアを上演

観客は熱狂し、ギリシャの長老演出家は

「今宵われわれはギリシャ悲劇を どう上演すべきかを学んだ」と絶賛した

 

2002年には名誉大英帝国勲章 第三位を受章

 

2010年に文化勲章を受章

 

2016年5月12日午後1時25分、肺炎による多臓器不全のため死去

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