あのスポーツの裏側」カテゴリーアーカイブ

中日ドラゴンズ:又吉克樹がサイドスローに変えたワケ

武器は、サイドスローから繰り出すテンポ良いピッチング

たとえ負けていてもテンポよいピッチングに

味方打線が勢いづき、逆転勝利する事が多い

そんな又吉がピッチャーになったのは、プロとしては遅い高校3年生の時

 

沖縄県立 西原高校 入学当時、

身長160㎝以下、ポジションは内野手の補欠

 

高校3年生の時、転機を迎える

たまたま投手がみな怪我をして「ピッチャーしたことある?」と言われた

経験はなかったが、試合に出たい一心でピッチャーに転向

そんな又吉に与えられた仕事は、バッティングピッチャー

多い時には 300球以上投げることも

 

上手投げだった又吉の肩が上がらなくなり、仕方なくサイドスローに変えた

卒業式の時、又吉は「俺はプロに行く」という言葉を残した

ピッチャーに転校したばかりで無謀ともいえるプロ宣言だった

 

それからサイドスローを磨きに磨き、6年後 プロ入りを果たす

(578)

スポンサード リンク

野球を始めたのは小学1年生の時

原辰則の甥っ子である菅野の夢は、巨人でプロ野球選手になることだった

大学まで野球をしていた父:隆志さん、息子への指導は厳しかった

チームの練習が終わっても、休む暇もなくダッシュ練習

ただ走らせるのではなく、様々な動きを付けて走らせていた

そうすることでバランスよく筋肉を鍛えるのが狙いだった

試合で良い結果を残しても父から褒められることはなかった

父は菅野に必ずノルマを課していた

例えば、今月のノルマは、毎朝 公園を10周走ること

どんなに頑張っても次から次へと厳しいノルマが課せられる

歯を食いしばりひとつひとつやり遂げていった

 

しかし父の指導でどうしても嫌な事があった

家族がそろい普通なら楽しいはずの食事

菅野に出されるのは決まって てんこ盛りのご飯

それを2杯食べるのがノルマだった

目の前では父が見ている…次々と唐揚げが積み上げられていく

当時、体が小さかった菅野、

プロ野球選手になるためには大きな体にしなければならない

その思いから父は、食事の時も厳しかった

 

中学生になると厳しい父の教えでチームのエースに

関東大会ベスト8に貢献、それでも父は褒めなかった

高校は父:隆志さんと叔父:原監督の母校:東海大相模高校に進学

すぐに原監督の甥っ子として注目された

しかし1年生の時、右肩を痛めてしまい思うように投げられなく絶望感に襲われる

悩んだ末、父に電話した「俺…もう野球やめたい…」

「何を言っているんだ智之」

「肩痛いし野球 やめるよ俺」父に初めて野球をやめたいと伝えた

すると「何を甘ったれたこと言ってるんだ!お前はそこまでの選手だったのか!やめちまえ!」

 

父が厳しくするのには理由があった

父もかつてプロ野球選手を目指しいていたが、夢は叶わなかった

プロになる難しさを身を持って知っているからこそ、

父は夢を追う息子を思い、あえて厳しく接した

その日以来、菅野は一度も弱音を吐くことはなかった

 

東海大学の3年生の時、最速157キロをマーク

それでも父は褒めなかった

大学4年の時にはプロ注目の選手としてドラフト1位候補に

夢は叔父:原監督がいる巨人に入ること

ドラフト会議、巨人と日本ハムの2球団が1位指名

抽選の結果、交渉権は日本ハムが獲得

ドラフトから数日後…両親のもとを訪ねた

「俺、自分の夢を貫きたい、もう一年待つよ」

1年間の浪人生活を決意

巨人に入れる確証はない…公式戦で投げる事も出来ない…

それでも黙々とトレーニングを続けた

2012年、2度目のドラフト会議、ついに夢の巨人入団を果たす

 

1年目からチームトップタイの13勝を挙げた

それでも父は褒めなかった

 

そんな父がはじめて褒めてくれた試合がある

それは2013年11月2日、日本シリーズ 第6戦 楽天vs巨人

マウンドには無敗の田中将大

王手をかけられ負けられない巨人

菅野は田中と投げ合った

菅野はこの年田中に投げ勝った たった一人の選手となった

試合後「智之はすごい。あいつは本当にスゴイ」

厳しかった父がはじめて菅野を褒めた

その夜、母から電話で父の話が伝えられた

「智之、お父さんがね「あいつは凄い 凄い」って褒めてたわよ」

「本当に…?」

出来れば直接聞きたがったが、頑張ってきて良かったなと思った瞬間だった

父は言う「智之が野球をやめるときに面と向かって褒めたい」

(2122)

中居正広のミになる図書館で紹介

 

芸能界屈指の相撲通:やくみつるによると

●千代の富士が引退会見で言った「体力の限界」は、元ドリフターズ荒井注が先に言っていた

コントのリハーサルがきつかったらしく、

芸能界を辞めた1974年に「体力の限界」と言ったという

千代の富士は、この荒井注の「体力の限界」を

どこかで聞いていたのかもしれない

 

●千代の富士が相撲を始めたのは、ただただ飛行機に乗りたかったから

千代の富士を誘いに来たスカウトが、

中々首を縦に振らない千代の富士にを説得するため

飛行機 乗れるよと言うと、「行きます」と東京行きを快諾した

(315)

成功の遺伝子で紹介された楽天のエース:則本昂大

楽天のエース:則本昂大の気迫あふれる雄叫びは、

偉大な投手:津田恒美の遺伝子にある

 

則本が津田と出会ったのは、小学4年生の時に放送された

広島東洋カープの投手:津田恒美のドラマ

闘志むき出しのピッチングスタイルから炎のストッパーと呼ばれた

原辰徳との対決では、放った剛速球で左手首を骨折させた

 

津田の強気のピッチング…則本には忘れられない場面がある

ピンチの場面でキャッチャーのサインに首を振り続ける津田

8回目でようやく頷くと真っ向勝負のストレートで抑える

則本もピンチが訪れるとキャッチャーのサインに首を振り、強気にストレート勝負

「気持ちだけでも津田さんを真似することはできるので強気のスタイルを貫ける限り貫きたい」

津田はマウンドに上がる前、

ボールに書き込んだ「弱きは最大の敵」と自分に言い聞かせていた

 

そんな津田は、悪性脳腫瘍により32歳の若さでこの世を去った

20年の時を経て、津田の魂は楽天のエースへ受け継がれた

則本のグラブには「弱きは最大の敵」と刺繍されている

(1998)

成功の遺伝子で紹介されたプロ野球 最年長投手:山本昌

 

2014年、プロ野球の最年長記録を更新

そんな山本にも引退を覚悟した瞬間があった

 

2011年、右足の腓骨筋腱を脱臼の重症

この時、すでに45歳だった山本は、「辞めた方がいいな」と引退を考えた

 

数日後、偶然 ある記事を目にする

「あっ!この人 俺と同じケガから復帰している!」

Jリーグ 名古屋グランパスの楢﨑正剛が同じケガを手術によって克服したと書かれていた

面識はなかったが、彼の話が聞きたい、と

山本は知人に電話番号を聞いて連絡した

「中日ドラゴンズの山本と申します」「えっ!何でしょう?」

「足首の手術から復帰した記事を拝見しまして…」

「治したいなら絶対 手術した方がいいですよ。よかったら病院紹介します」

電話を切った時、山本の心は決まった

 

電話のわずか3日後、楢崎に紹介してもらった病院で手術に踏み切った

そのおかげで2014年、49歳で勝利投手となり記録を達成した

 

突然の電話を受けた時、楢崎は旅行先の沖縄にいたという

(969)

スポンサード リンク