あの芸能人の過去」カテゴリーアーカイブ

41歳のときに北野武監督の目にとまり、

映画「ソナチネ」に出演し遅咲きのブレイクを果たした役者:大杉漣

 

40年以上前、妻の弘美さんと恋人同士だった大杉は、

4畳半の古いアパートで同棲生活を送っていた

大杉はバイト生活、弘美さんは劇団に所属する役者だった

大杉はバイトで稼いだお金をパチンコにつぎ込んでいたため

家賃4500円を滞納するほどお金がなかった

その後、大杉も劇団に所属

同棲生活8年目にして弘美さんが妊娠

すると「今日から大杉弘美になったから」

「えっ?どういうこと?」「籍 入れてきちゃった」

大杉が驚いていると

「結婚すると役所から出産のお祝い金が貰えるのよ!」

そして2人は結婚

「結婚したんだから これで新しいスーツでも買って」

と弘美さんから貰った5万円を大杉は、

パチンコにつぎ込み、5万円全てを使い切ってしまった

3年後には長女も誕生

弘美さんは子供を保育園に預け、仕事を掛け持ち

コツコツと貯金していたが、

大杉はその貯金をパチンコにつぎ込むこともあった

それでも妻:弘美さんから、

お金を稼いできてほしい とは、言われたことがなかった

 

長男の隼平は、プロのカメラマン

蜷川幸雄、中村勘三郎、クリスティアーノ・ロナウドなど

世界の著名人を撮影している

 

長男の隼平によると、おもちゃを指して「これいくらしたの?」と聞くと

父は、400発だよ、1000発だよとパツ計算で教えてくれた

元々舞台をやっていた母、後から始めた父

母は生活できないため、役者を辞めて働き始めた

「この人にはきらめくモノがある」と信じ続けた

 

大杉の才能を誰よりも信じていたのは、妻:弘美さんだった

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昭和の名人と言われた桂枝雀を師匠に持つ

幼少期を大阪市住吉区我孫子で

両親と家族3人仲良く暮らしていた

小学校4年生ころ、父はサラリーマン、

タクシーの運転手、屋台のうどん屋と職を転々と変えていた

そして父は、大のギャンブル好き

そのことで両親は、いつもケンカしていた

 

●母の失踪

小学校6年生になったばかりの5月の

連休が始まる前の三者面談が行われた

「母ちゃん、俺 友達と遊んでから帰るわ」

「じゃ おかあちゃん先に帰ってるから。きぃつけて帰ってきぃや」

と言い残し、母は失踪した

理由は父のギャンブルで作った借金、

大学での初任給が5万円の時代、借金が1000万円もあったという

 

●父に殺されかける

母が出ていった後も、父はギャンブルをやめなかった

その結果、借金取りが家に来るように

コツコツ稼げない父が、一発逆転のために策を打った

 

ある日、学校から帰ると玄関に見慣れない水槽があった

「ただいま、おとん、この魚なんなん?」

「ピラニアや。ピラニアの養殖 始めたんや。めっちゃ儲かるで」

酸素を入れなかったため、ピラニアは全滅した

 

この日の夜、体に重みを感じて目が覚めた

すると父が包丁持って馬乗りになっていた

「何しとん?」「すまん、俺と一緒に死んでくれぇ」

「嫌や!ボクまだ死にたない!まだ生きなあかんねん」

「すまんなぁ、子供に刃物 向けるなんて」

結局 父は心中を思いとどまった

そして我に返った父は、翌日 出ていったきり帰ってくることはなかった

12歳にして父にも捨てられた

 

近所のおばさんから面倒見てくれて食べるのには困らなかった

さらに父が時々、ポストにお金を入れてくれた

そんな事情を知らず、昼夜を問わず頻繁にやって来る借金取り

辛いことがあっても明るく笑顔で過ごした

マイナスな境遇を嘆かず、笑いに変える努力

 

●人前で芸をする喜びを知る

ある番組の公開収録へ、

そこで西城秀樹と一緒に歌うことになった

翌日の学校では、とんでもない反響だった

人生は変わった

テレビに出ることに味をしめた雀々は、

15歳でTBS「ぎんざNOW!」に出演

素人ながらレギュラーに抜擢

ある日、部屋でラジオを聞いていると落語が流れてきた

上方落語の「たぬさい」を聞いた雀々は、

「これ俺でもできるんちゃうかな」と思った

録音した「たぬさい」を紙に書き起こし独学で練習

そして同級生の前で披露した

すっかり自信をつけた雀々は、

素人が参加できる演芸番組で「たぬさい」を披露

するとプロの審査員からも絶賛

そして雀々は、将来 落語家になろうと決意した

 

●桂枝雀に弟子入り

師匠に桂枝雀を選んだのは、ご飯を食べさせてくれそう、だったから

15歳のときに枝雀師匠に弟子入りを志願

しかし、断られた

「働きながらでも定時制に通える。卒業してから また来なさい」

雀々は師匠の言いつけを守り、仕事をしながら定時制の高校へ進学

1年が経った頃、師匠の楽屋に呼ばれ、1977年6月1日、弟子入りした

雀々という名前は、枝雀が誰かに付けたかったという秘蔵の名前だった

1981年、ABC漫才・落語新人コンクール最優秀賞を受賞

レギュラー9本、月収200~300万稼いだ

 

●2002年、雀々の楽屋に訪ねて来た母と再会

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三代目 J Soul Brothers:岩田剛典の半生

1989年、愛知県名古屋市生まれ

幼い頃から端正な顔立ちで近所でも評判の美少年だった

性格は、かなりの引っ込み思案

砂場で一人お城を作ったりするなど

目立たないおとなしい子供だった

 

●超ガリ勉少年

小学生になると勉強一筋のガリ勉に変貌

教育熱心だった両親は、中学から慶応と

小さい頃から英才教育を施していた

大変だけど何が何でも慶応に入らないといけない、と

学校が終わると塾に直行

2つの塾を掛け持ちしながら帰宅後も家庭教師が付きっきり

1日地中勉強尽くし

当然、友達と遊ぶ暇などなくひたすら机にかじりついていた

その結果、模試で愛知県1位になるほど名古屋では有名な秀才に

努力の結果、慶應普通部に合格

合格を機に名古屋から上京し、母親と2人で東京暮らし

 

●ラクロス

高校から始めたラクロスのおかげで、たくましい体つきに

ラクロスではU-19日本代表候補に選出

するとそれまで全く見向きもされなかった女子からモテモテに

 

●ダンスとの出会い

たまたま観たドキュメンタリー番組でダンスを観る

2007年、慶応大学 法学部に進学するな否な、

すぐに慶応でも有名なダンスサークルに所属

朝から晩まで四六時中 ダンスに打ち込み、サークルの代表まで務めた

クリスマスは彼氏彼女のいない者同士、

岩田の家で「さびしんぼうナイト」を開催

 

●就職氷河期での就職活動

エントリーシートだけで100社以上

実際に受けたのが3、40社

本命までの面接の練習、企業研究、

サークルの経験を仕事できることへ結びつける自己PR…

髪を刈り上げて黒く染め直し、リクルートスーツを着て、企業回り

日テレを含む、アナウンサー試験も受けている

一流企業から内定をもらったが、運命が大きく変わる選択を迫られる

 

●三代目 J Soul Brothers

元々つながりのあった小林直己から、連絡が来た

「今、EXILEの新しいユニットを作る企画が動き出している。パフォーマーオーディションでダンサーを募るけど、どう?興味ない?」

「いえ興味はありますけど。僕もう内定いただいていて」

就活で全く踊っていなかったので自信がないが、

1分間のパフォーマンス動画を送った

サークルの合宿で長野に滞在中、LDHから連絡が来た

ひとり長野の山を下りて東京に戻った

しばらくするとLDHから「EXILEの見学に来なよ」と神戸に呼ばれた

そのリハーサルでHIROから

「三代目 J Soul Brothersを結成します。メンバーが決まったので今日発表します。…エリーおめでとう、そして岩田剛典くんおめでとうございます」

それを聞いた岩田は、涙が止まらなくなった

 

●家庭教師の水野先生

岩田は、雑誌の取材で、人生で影響を受けた人物として

HIROと並び家庭教師の水野先生を挙げている

勉強だけでなく釣りや昆虫採集など色んなことを教えてもらった

昆虫標本は今でも持っているという

中学受験の勉強は、かなりきつかったらしく

「どうして先生こんなに勉強しなきゃいかんのだろう?」

と弱音を吐くと「自分らしく生きるためだよ」と答えてくれた

今の岩田の感性は、水野先生に磨いてもらった

その感謝の想いを年賀状に込めて送っている

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1987年、16歳のときにザ・テンプターズのボーカルとしてデビュー

自宅がある大宮から仕事場へ行く京浜東北線が毎日ファンで満員に

ついに当時の国鉄から事務所にクレームが入った

 

●1971年、ザ・テンプターズ解散し、

沢田研二とバンド:PYGを結成するも1年で脱退

 

●1972年、映画「約束」でサード助監督で参加し、主演に抜擢

レフやバッテリー持ちながら、演じた

 

●「太陽にほえろ!」に新人刑事:マカロニ役で出演

人気絶頂時に自ら殉職を希望し、

死に方のアイデアは萩原健一が考えた

 

●1974年、「傷だらけの天使」

衣装からストーリーに至るまでショーケンのこだわりが満載

 

●1980年、映画「影武者」

主役に起用された勝新太郎が半年に及ぶリハーサルのあと突如降板

その理由は「○○してる時間があるなら ちゃんとリハーサル来なきゃ」

現場に来ない勝新太郎を滞在先の

ホテルニューオータニまで説得に出向いた

「部屋に入ると○○臭い。部屋には内田裕也もいた。何やってんの?と声をかけた」

「信玄は分かるが、影武者は分からない」と勝新太郎が言った

「それは考えなくていいから出てこい。それは君が考えることじゃないから」

 

●宇宙柄のパンツを穿くほど宇宙が大好き

 

●強引な取材をするテレ朝の芸能レポーターをカメラで撮影し、

「撮られる側の気持ちが分かるか」と一喝

 

●着ぐるみのアルバイトをしていた

芸能活動自粛中に、養育費のために

スヌーピーの着ぐるみのアルバイトを1年近くしていた

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1985年、NHK朝の連続小説「澪つくし」で主演を務めた川野太郎

その後も大河ドラマや昼ドラなど数多くのドラマに出演し、

主婦に人気の名俳優に

プライベートでは1991年にOLをしていた珠美さんと結婚

2人の子宝に恵まれ、幸せな生活を送っていた

 

2009年7月、体調がすぐれない珠美さんが

病院で精密検査を受けたところ子宮頸がんと診断

最も深刻なステージⅣまで進行していた

がん専門の病院へ店員が必要となり、

医師に紹介状を書いてもらうことに

 

「ここでは放射線治療ができません。紹介状を書きますので がん専門の病院をお勧めします。お住いの近くで実績もある総合病院を紹介させていただきます」

通常 紹介される病院は、

自宅近くや医師同士の交流がある病院が多い

「先生、ちょっといいですか。もし先生が治療を受けるとしたら どの病院ですか?」

この質問で転院する病院が変更となった

必ずしも医師が勧める病院に行く必要はなく

患者のリクエストした転院先を書いてもらえる

妻を助けたい一心で出た言葉だった

 

病院を紹介してもらった珠美さんは、最先端の治療を受け、

ステージⅣまで進行していた がんは全て消滅した

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