あの芸能人の過去」カテゴリーアーカイブ

●グラビア女優:神埼恵は今…シングルマザーから美人ベストセラー作家に転身

「ひとつ屋根の下に」に出演後、

「王様のブランチ」のリポーターとして数々のバラエティ番組で活躍

2000年3月4日、24歳の時に

横浜F・マリノス:遠藤彰弘と結婚し、

主婦業に専念するため芸能界を引退した

2人の子宝に恵まれたが4年後に離婚

 

現在、ビューティーブラッシュアップコンサルタントとして数多くの書籍を出版

2013年「読むだけで思わず二度見される美人になれる」をリリース

以来、今も売れ続け累計12万部を超えるベストセラーに

 

離婚後、お金が無くてアルバイトで生計を立てていた

そんな中、自らの美容法を紹介していたネット番組が

話題になり出版化が決定

美意識の高い女性から多くの支持を得て大ヒットした

 

2014年、ヘアメイクの男性と再婚、2015年に三男を出産した

(492)

スポンサード リンク

●貧乏女優:緑川静香がデビューしたきっかけ

5歳の時に父親が蒸発し、どん底の貧乏に

高校時代まで知人の物置で家族と生活

公園の葉っぱやスーパーの試食で9頭身に育った

 

雑誌の編集マンにスカウトされ、ずっと断っていた

「撮影現場にはお菓子がいっぱいあるよ」

と誘われたのが芸能界入りしたきっかけ

 

当時、貧乏すぎて白いご飯を食べるのが精一杯で、

お菓子は憧れでしかなかった

 

初めてグラビアが掲載された雑誌を母が内緒で2冊も購入していたという

 

月イチで使ってもよいお風呂が雷で破壊され、

タオルで拭くか、公園で水浴びするしかなかった

 

●筆箱はお菓子の箱が代用

小学校の時、筆箱が買えなかったので

友人の家で出されるアーモンドチョコレートの箱で代用していた

 

●ご馳走は、道端に生えている猫じゃらし

生の葉っぱと猫じゃらしの素揚げ

 

●特別な日だけのご馳走は、赤いきつねの炊き込みご飯

自転車を買ってもらえずいつも走っていた緑川は異様に足が速くなった

運動会で1位を取った時の、年に1度のご馳走

白いお米に、ちぎった麺、かやく、粉末スープをを加え、炊き込む

それを容器に戻して食べるのが緑川流

赤飯の代わりに食べる「レッドライス」と呼んでいた

 

●空腹に耐えられなく目の前のコオロギを食べた

味を一言で言うとマイルドでコクがある

左後ろ足から一口で ●国語の教科書は美味しい

国語の教科書が美味しいのは、

ストーリーを見ながら食べられるので香ばしく甘い

 

●公園の葉っぱを食べていた

何の葉っぱが食べられるか?母に聞くと

「火を通せば何でも食べられる」

しかし母がいないと火が使えない

「そうした時はどうしたらいいの?」と聞くと

「太陽には殺菌作用があるから、日光に葉っぱをかざしなさい」

自分の手が熱いなと感じたら食べごろと教えられた

 

●歯が生えた状態で生まれた

緑川が生まれる前、母のお腹にいるとき、

貧しい家に生まれることを予感していたのか、

母の栄養を取れるだけ取ろうとしたようで

出産のときに、歯が生えた状態で生まれ、

母の歯が全部抜け落ちてしまった

緑川家は先天性の貧乏で、母も栄養が足りていなかった

(2093)

岡本真夜の名曲エピソード

 

●「Alone」1996年11月5日発売

“ぎゅっと誰か抱きしめて あたたかい胸で泣かせて ほんとは寂しがりやで 一人で泣いてばかりで”

上京したての20歳前、デビュー前で辛いことが重なった

そんな時に生まれた「ぎゅっと誰か抱きしめて」のフレーズ

本当に辛い時期だったので

レコーディングで泣いて泣いて歌えなかったという

 

●「そのままの君でいて」1997年1月16日発売

“もっと自由に もっと素直に 強がらないで そのままの君でいいんじゃない?”

高知県立高知南高等学校時代の親友との思い出

岡本は上京、彼女は地元高知で就職、お互いに励ましあっていた

 

●「TOMORROW」1995年5月10日発売 ドラマ「セカンド・チャンス」のタイアップ

“涙の数だけ強くなれるよ アスファルトに咲く花のように 見るものすべてに 怯えないで 明日は来るよ 君のために”

最初はバラードで作っていた曲

デビューの時、ドラマのタイアップが決まりプロデューサーがアップに

アップの曲は、歌うのも作るのも下手なので、

これ以降、バラードで作っておいてアップに変調している

 

●高知県四万十市出身

両親の離婚により祖父母の養女となり、人見知りが激しく、恥ずかしがり屋だった

小学3年生から高校1年生の時までピアノ教室に通っていた

高校一年の時にラジオで「未来予想図II」を聞いたのが歌手を目指すきっかけ

(342)

A-Studioに電気グルーヴ:ピエール瀧が出演した

 

●石野卓球との出会い

高校1年生の時、野球部に入った瀧は、

別の中学から入部してきた1年生と知り合った

瀧はYMOなどのテクノ系の音が好きだと音楽の話をしたところ、

「だったら中学の同級生でスゴイ詳しい奴がいるから今度遊びに行こう」

友人に誘われて遊びに行った先が、石野卓球 宅だった

 

●阪神タイガースの入団テスト

1985年、18歳の時 甲子園で阪神タイガースの入団テストを受けた

高校3年間、野球を続けた瀧は、甲子園に行けなかった

そんな時、阪神タイガースの入団テストが甲子園で行われることに

これに応募すれば合法的に甲子園に立てると記念のつもりで受けてみた

50m走と遠投は合格し、ノックとバッティングに進んだ

阪神のバッティングピッチャーの球をケージの中で打って満足し帰宅

もちろん合格には至らなかった

(383)

●歌舞伎俳優:片岡愛之助の半生

1972年、大阪府堺市に2人兄妹の長男として生まれた

本名:山元寛之

実家は船のスクリューを製造する町工場

家も工場と同じ敷地内にあり、

ダンプカーが出入りして危ないからと外で遊ばせてもらえなかった

そんな息子を可愛そうに思った父は、

5歳の時に遊び場代わりに松竹芸能の子役養成所へ通わせる

7歳の時に子役として歌舞伎の舞台に出演

愛之助は歌舞伎の魅力に惹き込まれた

そんな歌舞伎を楽しむ愛之助の姿が、二代目 片岡秀太郎の目にとまった

1981年、秀太郎の父で人間国宝の十三代目 片岡仁左衛門に弟子入り

しかし外から入ってきた愛之助には、大きな役が回ってくることはなかった

 

●片岡家の養子

19歳になったある日、片岡秀太郎に呼ばれ「片岡家の養子にならないか?」

歌舞伎俳優を続けたいという愛之助の思いを知った秀太郎は、

より良い環境で歌舞伎ができるように養子になることを提案した

愛之助は両親に相談した

父は「自分が本当にしたい仕事なら行ってこい」

母も「思う道を進みなさい」

両親に背中を押され、19歳で片岡秀太郎の養子に入る

六代目 片岡愛之助を襲名

 

●両親の死

そんなある日、母の気管支に末期がんが見つかり、余命3週間と診断される

不安を抱えながらも舞台に立ち続けた

そんな息子に励まされてか、母の病状も奇跡的に回復した

それてから4年後、愛之助の公演中、

母の容体が急変、病院に緊急搬送される

1999年、千秋楽の翌朝、家族全員が見守る中でそっと息を引き取った

2000年、母を追うように父がクモ膜下出血で他界

立て続けに両親を亡くなった愛之助は歌舞伎の舞台に立ち続けた

2010年、十一代目 市川海老蔵の代役で「外郎売」の主役に抜擢

これをきっかけに歌舞伎だけでなく映画、舞台、ドラマまで幅広く活躍

(693)

スポンサード リンク