あの芸能人の過去」カテゴリーアーカイブ

●歌手:高田みづえの娘:アイリが女優に

歌手:高田みづえと元大関:若島津の間に生まれた

芸能界デビューは、アイリが22歳の時

実は母に一言も相談せずにデビューを決めた

有名な父と母の間に生まれたアイリは、

人知れず二世としてのコンプレックスを抱えてきた

幼い時から「芸能界に入るのか?」と聞かれることも多かったが、

20歳を超えるまで芸能界入りを否定し続けてきた

しかしある時、芸能界への強い憧れが芽生えた

今まで抑え続けてきた気持ちに気付いたアイリは、

母に相談せず22歳で芸能界へ

だが芸能界は甘くはなかった

テレビに得る売れっ子は一握り、簡単に成功できるワケがない厳しい世界

 

●高田みづえの成功

高田が生まれたのは鹿児島市内から電車で2時間、指宿にある頴娃町

料理はかまどで薪を炊いて作り、洗濯は川でするほどの田舎

風呂は裸電球一つが下がった五右衛門風呂だった

そんな娯楽の少ない田舎でみづえを虜にしたのが、歌

いつしか歌手になる夢を抱いたみづえは、小学3年生から7年間 新聞配達を続けた

稼いだお金で歌のレッスンに通った

週に2回、往復5時間かけ鹿児島市内の音楽スクールに

15歳の時にオーディション番組に応募、すると次々に勝ち抜き、チャンピオンに

田舎から出てきたシンデレラガールとしてデビュー

親元を離れ単身東京へ

デビュー曲「硝子坂」が32万枚の大ヒット

彼女には芸能界で成功して、どうしても叶えたい夢があった

それは両親のために家を建てる事

無駄使いせず21歳でその夢をかなえた

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●麻木久仁子が悔いる母との確執

 

23歳で結婚した母は、3人の子宝にも恵まれた

しかし40歳の時に夫婦のすれ違いが原因で離婚

 

それからは子供3人を引き取り、

わずか10畳ほどのワンルームで暮らし始めた

育ち盛りの子供を支えるため昼はOL、

夜は銀座でホステスとして働き、必死記子供たちを育てていた

とにかく朝から深夜まで働き詰めの毎日

家事や弟とたちの世話は、長女の麻木にすべて任せていた

 

当時、麻木は学習院大学に通う19歳

自分で学費を稼ぐためアルバイト漬けの日々を送っていた

時給500円の宛名書きからウエイトレスなど何でもやった

それなのに家に帰れば家事を強いられる生活…ストレスが溜まっていた

 

ある日、麻木の不満が爆発する

毎日のように親子は激しく衝突した

こんな生活になったのは離婚した母のせい、いつしかストレスは極限状態に

麻木は貧乏生活が耐えられず大学を中退

 

母と衝突したまま家を飛び出し、一人暮らしを開始

生計を立てるため芸能活動を始めた

 

そんな麻木の生態は変わっている

●夜な夜なバーボンを飲みながら包丁を研ぐ

酔っぱらって気分が良くなると包丁を研ぎたくなるという

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“君と好きな人が百年続きますように”

●名曲「ハナミズキ」を生んだ一青窈の家族の物語

1970年、台湾人の父:顔恵民と日本人の母:一青かづ枝は、東京で出会って結婚した

その年、長女:妙が生まれ、1976年9月20日に次女;窈が誕生

一家は父の故郷 台湾で暮らすように

父:顔恵民は台湾で金鉱山を経営する五大財閥のひとつ、顔一族の長男

日本から言葉も風習も違う台湾に嫁ぎ、大財閥の長男の嫁となったかづ枝

夫のために台湾料理を一から習得し、いつも美味しい料理を作ってくれた

1981年、窈が5歳の時に東京都世田谷へ一軒家を購入し移住

しかし父だけは台湾に残り、離れて暮らすことになった

この頃から日本での生活がしやすいようにと、

母方の姓である一青を名乗るようになった

窈が小学生のなったある日、父が突然 日本で暮らすようになった

 

たまたま行ったかかりつけの病院の検診で見つかった夫の肺がん

1983年12月17日、紹介された大学病院で詳しい検査を行った

「両方の肺ががんに侵されています。残念ですが手術は不可能です」

がんが確定した後、かづ枝は父の親族と友人らを呼んで、

本人に病名を知らせるか協議し、本人には隠し通すという決断に至った

母は父にウソの病名を伝え続けていた

当然、幼い娘たちにも父親の病名が告げられることはなかった

薄々がんに気づいている父、愛するがゆえに告知しない母

父は告知しない事への抵抗として母を無視するように

その後、国立がんセンターに転院

1984年3月、父が退院

父が母を無視するようになってからすでに1年がたっていた

1984年冬、再び入院

台湾から兄弟が見舞いに訪れ、父と母の仲について気付いた

「なぜ夫婦仲が悪いんだ?」「かづ枝はずっとだましていた。それが許せないだけ」

病状を悟ったと確信した兄弟は、父に告知した

「黙っていたのはかづ枝さん一人の判断ではない。医者と周りの者が相談した結果なんだ」

その翌日のこと、1年ぶりに父から母に声をかけた

「君が事実を言ってくれなかった、ただそれだけだよ。他に何もない。君には事実を言ってもらいたかった」

「ごめんなさい」「こっちを向いて手を握ってくれ」

夫婦の会話が戻ってから、わずか1か月後の1985年1月20日、

父はその生涯を終えようとしていた

「ごめんなさい。2人してもらっていい?」

母は父との最期の時を2人きりで過ごし、娘たちにすらその瞬間を渡さなかった

 

父の遺書が残っていた

パパは自分でもこんなに早く世の中からさようならするとは思いませんでした。窈ちゃんが成人する位までは生きられるのではないかと。これはパパの欲張りでした。妙ちゃん、窈ちゃん ケンカしてもよい。ふたりとも元気で大きくなるように。そして自分の好きなことで独立生活できるよう頑張ってください。この事が一番大切です。三人共 元気で頑張るよう。さようなら

 

一家3人での生活が始まった

母は少しでも家計の足しになればとスーパーで働き始めた

母がパートで家にいない時間が増え、中学生の姉も帰りは遅い、

父がいなくなった家は、ぽっかりと穴が開いたようだった

そんな寂しさを紛らわすために窈は父宛てに手紙を書き続けた

宛先のなくなったその手紙は、いつしか父を想う詩のようになっていった

あるクリスマスの夜、どうしても父に会いたくなった窈は、

“サンタさんへ お父さんが生き返る薬をください”を書置き、

それは母には決して叶えることのできないプレゼントだった

 

窈の中学卒業を間近に控えた1991年3月、

当時46歳だった母がたまたま受けた健康診断

「妙ちゃん、ママねぇ、胃がんになっちゃったみたいなの」

「えっ」「明日一緒に先生の話聞いてくれるかな?」

父が他界してから6年、まさかの出来事だった

医師は胃の全摘出を進めた「どうしますか?手術しますか?」

母は迷うことなく1週間後の手術のスケジュールまで決めた

窈はまだ中学生、父の時と同様、この事実を伏せることにした

結局、窈には胃潰瘍と説明した

思春期だった窈を守る、母と姉がついたウソ

母は、8時間にも及ぶ胃の全摘手術を受けた

退院後も以前と変わった素振りすら見せなかった

手術から2年がたった1993年、あちこちが痛いと言うようになったが、

2人とも再発とは夢にも思っていない

ところが定期検診に行くと医師から精密検査を勧められ、受けることに

すると写真を撮ったレントゲン技師が驚くほど、がんが全身に転移していた

がんであったことすら知らない窈に、姉はこの事実を伝えることはできなかった

検査から8日後、突然の危篤

窈に真実を伝えることができたのは、亡くなるわずか12時間前だった

「実はね、ママねぇ もう長くないんだよ」

一青窈は、あまりのショックで当時の記憶がないという

1993年3月9日、48歳で母はこの世を去った

窈は母と言葉を交わす事さえできなかった

 

●♪ハナミズキのタイトルはアメリカから日本に送られた花の名前

一青窈は、9.11アメリカ同時多発テロの映像をテレビで見ていた時、

当時、ニューヨークに住んでいた友人からメールで

「家がなくなって大変」という状況を聞いた

この事件に衝撃を受けた一青窈は、何か自分に出来る事はないか?

友人として思いを届けたい、と「ハナミズキ」を一気に書き上げた

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真面目すぎる俳優:渡辺裕之

 

●もしもの時に備え常にロープを車に積んでいる

番組でロッククライミングを体験

懸垂と言うロープを使用した降り方を知った

滑り落ちた共演者の女性を渡辺が受け止めて、

そのまま懸垂で降りることができた

これは救助に役立つと思い、以来 車に積んでいる

 

●人助け

2007年1月、車の横転に偶然 目撃

駆け寄って後部座席で動けなくなった男性を引きずり出した

常備していた毛布が役に立ったという

 

●毎日ゴミ拾い

ゴミがあると拾いたくなる

町内、通勤道路に捨てられていると運転していても停めてゴミ拾い

車内にはゴミ拾いセットを常備している

健康のためにランニングを始めると、その帰りにゴミ拾いをするように

45リットルのゴミ袋が、4、5袋

ゴミ袋を使って上腕二頭筋を鍛えている

毎度、尿の入ったペットボトルを拾っている

 

最初は地域愛、そのうち祖国愛に発展

ゴミを拾う瞬間に、ゴミを捨てた人のドラマを思い描いてしまう

例えば、口紅の付いたタバコが交差点に捨てられていた

助手席に座る女性、もしくは運転している女性?

その横に座っている小学校低学年の子供が、捨てるシーンを見ている

その子はどういう風に育つのか?

自分の住んでいる日本を汚している、

こんなことで日本はいいのか?と想像する

 

●拾った財布

これまで財布は4回拾っている

中に免許証などの情報があったら

指紋などを崩さないように確認して写メを撮り、警察に届ける

その人がFacebookにいないか?調べて、メッセージを送る

これまで2名ほどFacebookで落とし主を見つけて、メッセージを送っている

これらの行為を良いことではなく当たり前のことだと思っている

 

●俳優になったきっかけ

「役者になりたいんですけど、どこに行けばいいですか?」

とフジテレビの受付を訪問した

受付嬢は渡辺をフジテレビのドラマ制作部に案内した

行ってみると誰も相手してくれない

スタッフに声をかけると「こんなとこに来ちゃダメだよ」と叱られた

「タレント名鑑という本があるから、それで事務所を調べなさい」

言われた通り、タレント名鑑を購入して、

3か所の事務所に連絡したが、結果的にダメだった

 

学生時代、ドイツ空港でバイトしていた渡辺は、

笑っていいとも!に出演するドイツ人に可愛がってもらっていた

そのドイツ人がCMに出演することになり付き添ってスタジオに同行

他の出演者の外人と話していると、CMの監督が渡辺を通訳を勘違いし、

「ちゃんと通訳しろよ!」と指示してきたので通訳した

これがきっかけで、その事務所のマネージャーになった

その事務所で3年 マネージャーを続け、その後、事務所が分裂したので

マネージャーのノウハウを生かして役者として独立

東北新社に自分を売り込み、最初の仕事となるコカ・コーラのCM出演を取った

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小室哲哉、宇都宮隆、木根尚登の3人で結成したTM NETWORK

「Get Wild」が「シティーハンター」のエンディング曲に採用されブレイク

 

●TM NETWORKの結成秘話

 

元々は、高校生の時に宇都宮隆、木根尚登でデュオを組んでいた

 

そこから人が増えてバンドになり

1979年にスピードウェイというバンドでデビュー

メンバーは6人、このころに小室哲哉が加入した

 

しかしスピードウェイは全く売れなかった

 

「もう大人数はやめよう。コンパクトに」と小室が発案し、

TM NETWORKは3人編成になったという

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