デビュー/引退秘話」カテゴリーアーカイブ

●歌舞伎俳優:片岡愛之助の半生

1972年、大阪府堺市に2人兄妹の長男として生まれた

本名:山元寛之

実家は船のスクリューを製造する町工場

家も工場と同じ敷地内にあり、

ダンプカーが出入りして危ないからと外で遊ばせてもらえなかった

そんな息子を可愛そうに思った父は、

5歳の時に遊び場代わりに松竹芸能の子役養成所へ通わせる

7歳の時に子役として歌舞伎の舞台に出演

愛之助は歌舞伎の魅力に惹き込まれた

そんな歌舞伎を楽しむ愛之助の姿が、二代目 片岡秀太郎の目にとまった

1981年、秀太郎の父で人間国宝の十三代目 片岡仁左衛門に弟子入り

しかし外から入ってきた愛之助には、大きな役が回ってくることはなかった

 

●片岡家の養子

19歳になったある日、片岡秀太郎に呼ばれ「片岡家の養子にならないか?」

歌舞伎俳優を続けたいという愛之助の思いを知った秀太郎は、

より良い環境で歌舞伎ができるように養子になることを提案した

愛之助は両親に相談した

父は「自分が本当にしたい仕事なら行ってこい」

母も「思う道を進みなさい」

両親に背中を押され、19歳で片岡秀太郎の養子に入る

六代目 片岡愛之助を襲名

 

●両親の死

そんなある日、母の気管支に末期がんが見つかり、余命3週間と診断される

不安を抱えながらも舞台に立ち続けた

そんな息子に励まされてか、母の病状も奇跡的に回復した

それてから4年後、愛之助の公演中、

母の容体が急変、病院に緊急搬送される

1999年、千秋楽の翌朝、家族全員が見守る中でそっと息を引き取った

2000年、母を追うように父がクモ膜下出血で他界

立て続けに両親を亡くなった愛之助は歌舞伎の舞台に立ち続けた

2010年、十一代目 市川海老蔵の代役で「外郎売」の主役に抜擢

これをきっかけに歌舞伎だけでなく映画、舞台、ドラマまで幅広く活躍

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誰だって波乱爆笑で紹介されたYOUのプライベート

 

東京都小金井市に生まれたYOU、本名 由希子

一人っ子のYOUは、箱入り娘として大事に育てられた

習い事は、ピアノ、水泳、習字、バレエ、

絵画などの英才教育を受け、勉強もできる優等生だった

3歳のころから続けていたバレエには自信を持っていたが、

中学生の時に容姿、実力ともに叶わないライバルが、

出現するとあっさり見切りをつけて断念

 

●ノースリーブ

他の習い事も辞め、テニス部に入部する

今でも袖のある衣装を嫌い、

ノースリーブの衣装を着ることが多いYOUだが、

テニス部の袖の無いユニフォームが

楽でその後もノースリーブを着用するように

 

●デビュー

竹の子族として遊んでいた原宿でスカウトされモデルデビュー

すると愛くるしいルックスが評判となり、テレビ番組にも出演するように

1988年、出演していた舞台を観に来ていた音楽関係者の目に止まる

FAIRCHILDのメンバー入りを勧められボーカルを担当

CMに起用された「探しているのにぃ」でブレイク

この頃に、本名の由希子から、昔からのあだ名だったYOUに改名

1991年、「ダウンタウンのごっつええ感じ」でダウンタウンと共演

 

●14時間飲む酒豪

家族ぐるみの付き合いをしているMEGUMIによると

夜な夜な酒を飲み続けている

酔うと普段の8倍くらい大きさになり「ニャー!」と奇声を発する

強烈に泥酔して羽目を外したとき、

MEGUMIの夫:隆谷建志に顎を持って怒られた

この時から隆谷建志のことを校長先生と呼ぶようになり、

隆谷建志の前では泥酔姿を見せなくなった

 

MEGUMIいわく「選ばれた胃腸をお持ち。なので年下の男性と結婚してほしい。年上の男性ではあの元気についていけない」

14時間飲み続ける飲む量は、バケツ2杯くらい

 

●子育て

「子供はある程度の量のご飯を与えていると大きくはなります」

「その区で定められた学校に入れておくと育ちます」

息子が3歳の時から15年間 朝6時に起きて弁当を作っている

7時に送り出してから12時まで睡眠、仕事が終わるとまた翌6時まで飲む

MEGIMIいわく「(息子は)日焼けした真田広之。YOUに似ていない」

息子に怒る時は、低い声で「オイ!捨てっぞ!」

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真面目すぎる俳優:渡辺裕之

 

●もしもの時に備え常にロープを車に積んでいる

番組でロッククライミングを体験

懸垂と言うロープを使用した降り方を知った

滑り落ちた共演者の女性を渡辺が受け止めて、

そのまま懸垂で降りることができた

これは救助に役立つと思い、以来 車に積んでいる

 

●人助け

2007年1月、車の横転に偶然 目撃

駆け寄って後部座席で動けなくなった男性を引きずり出した

常備していた毛布が役に立ったという

 

●毎日ゴミ拾い

ゴミがあると拾いたくなる

町内、通勤道路に捨てられていると運転していても停めてゴミ拾い

車内にはゴミ拾いセットを常備している

健康のためにランニングを始めると、その帰りにゴミ拾いをするように

45リットルのゴミ袋が、4、5袋

ゴミ袋を使って上腕二頭筋を鍛えている

毎度、尿の入ったペットボトルを拾っている

 

最初は地域愛、そのうち祖国愛に発展

ゴミを拾う瞬間に、ゴミを捨てた人のドラマを思い描いてしまう

例えば、口紅の付いたタバコが交差点に捨てられていた

助手席に座る女性、もしくは運転している女性?

その横に座っている小学校低学年の子供が、捨てるシーンを見ている

その子はどういう風に育つのか?

自分の住んでいる日本を汚している、

こんなことで日本はいいのか?と想像する

 

●拾った財布

これまで財布は4回拾っている

中に免許証などの情報があったら

指紋などを崩さないように確認して写メを撮り、警察に届ける

その人がFacebookにいないか?調べて、メッセージを送る

これまで2名ほどFacebookで落とし主を見つけて、メッセージを送っている

これらの行為を良いことではなく当たり前のことだと思っている

 

●俳優になったきっかけ

「役者になりたいんですけど、どこに行けばいいですか?」

とフジテレビの受付を訪問した

受付嬢は渡辺をフジテレビのドラマ制作部に案内した

行ってみると誰も相手してくれない

スタッフに声をかけると「こんなとこに来ちゃダメだよ」と叱られた

「タレント名鑑という本があるから、それで事務所を調べなさい」

言われた通り、タレント名鑑を購入して、

3か所の事務所に連絡したが、結果的にダメだった

 

学生時代、ドイツ空港でバイトしていた渡辺は、

笑っていいとも!に出演するドイツ人に可愛がってもらっていた

そのドイツ人がCMに出演することになり付き添ってスタジオに同行

他の出演者の外人と話していると、CMの監督が渡辺を通訳を勘違いし、

「ちゃんと通訳しろよ!」と指示してきたので通訳した

これがきっかけで、その事務所のマネージャーになった

その事務所で3年 マネージャーを続け、その後、事務所が分裂したので

マネージャーのノウハウを生かして役者として独立

東北新社に自分を売り込み、最初の仕事となるコカ・コーラのCM出演を取った

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小室哲哉、宇都宮隆、木根尚登の3人で結成したTM NETWORK

「Get Wild」が「シティーハンター」のエンディング曲に採用されブレイク

 

●TM NETWORKの結成秘話

 

元々は、高校生の時に宇都宮隆、木根尚登でデュオを組んでいた

 

そこから人が増えてバンドになり

1979年にスピードウェイというバンドでデビュー

メンバーは6人、このころに小室哲哉が加入した

 

しかしスピードウェイは全く売れなかった

 

「もう大人数はやめよう。コンパクトに」と小室が発案し、

TM NETWORKは3人編成になったという

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重厚な演技に定評がある俳優:石橋凌

活躍の場は国内にとどまらずハリウッドにも進出している

元々は、伝説のロックバンド:ARBの元ボーカル

「僕はマイノリティ、何とか茶の間に切り込んでいきたい」と語る

 

●音楽

1956年、福岡県久留米市 5人兄弟の末っ子として生まれた

兄たちの影響で聴き始めたロック

高校に進学するとバンドを結成

数々のスターが巣立ったライブハウス:照和のステージでライブを行った

東京のレコード会社からソロでスカウトがあったが、

バンドで上京がしたいと全て断った

お世話になっていた地元ラジオ局の方に背中を押される形で上京

最後のチャンスと思って受けたARBのボーカルオーディションで合格

しかし当時の事務所が期待していたのは、アイドル路線のバンド

ロックを志していた石橋は事務所と決別

ワンボックスカーで全国のライブハウスを回って頭角を現した

しかし武道館でライブをしてもマイノリティ、

幼い時に聴いていたビートルズ、ストーンズ、CCRは、茶の間に届いている

その壁が超えられず、ここまでかなと思った時に、松田優作に出会った

 

●松田優作

直感的に自分が抱えている悩みを相談できると感じ、石橋は打ち明けた

「お前がいる音楽よりも映画の方が大きい、映画で名前と顔を売ってみろ」

松田優作は自身の初監督作品「ア・ホーマンス」で石橋を抜擢

石橋は これを機に俳優業に乗り出した

その後、松田優作はハリウッド映画に出演

しかしこれからという時に突然 病に倒れた

手を差し伸べてくれた松田優作の意志を継ぐべく石橋は、

ハリウッドで通用する日本人俳優になると決意を固める

そのために音楽活動を一旦 封印、俳優業に専念する事に

国内で実績を積み上げ1993年には、念願のハリウッドデビュー

その後も数々の映画に出演

石橋は松田のご仏前でハリウッド俳優になった事を報告し、

俳優に専念することに一区切りとし、音楽活動を再開した

 

●ジョン・レノンのような普遍的な歌を歌えたらいい

「このままじゃ終われない」と語った

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