日別アーカイブ: 2016年6月2日

オー・ギャマン・ド・トキオの木下威征

1972年、東京都多摩市に生まれた

会計士の父、母親と妹の4人家族

幼い頃は、山に秘密基地を作ったり、野球、サッカーで遊ぶガキ大将

 

中学生に入ると、生意気、それだけの理由で先輩から制裁を食らった

先輩だろうが、タイマンで仕返し、不良の道を突き進んでいった

中学校は、何とか卒業

 

高校に入学しても変わらず、

学校には行かず、友人の家を溜まり場に麻雀三昧

「腹減ったな」「じゃあ俺が何か作ろうか?」と

キッチンを借りて、余っているご飯と

その辺にある調味料をぶち込んでチャーハンを作った

友人たちは口々に美味いと言いながら食べた

自分の料理で人と喜ばせるって楽しいなという思ったという

 

●逮捕

当時、暴走族の行動に歯止めをかけるべく警察は必死だった

木下の高校にまで警察はやってきて不良たちを一斉検挙

もはや見捨てられてもおかしくない状況に母は、

「ウチの息子が本当に申し訳ありません。いい加減にしなさい!」

泣きながら木下の頬をはたいた

木下は、ハッととした

思っていた以上に老け込んだ母を見た瞬間に、

いい加減 目を覚まさなきゃという思いを起こしてもらった

 

●料理の道へ

しかし不良をやめても やるべきことは見つかなかった

そんな迷いの中、ふと見ていた雑誌の広告に目を奪われた

高校卒業後、料理専門学校の辻調グループ エコール辻東京に入学

木下が入ったフレンチコースには約300人のライバルがいた

中学、高校と学校をさぼったツケが回り、苦悩することに

絶対に負けてたまるか という負けず嫌いの根性で必死に努力を重ねた

成績上位者のみが行けるというフランス留学の切符を獲得

 

●フランス留学

半年間、本場フランス校での授業を経て、星付きレストランで研修にでた

そこで木下は人種差別の壁に直面する

一様に日本人をバカにするフランス人

だが木下は、ここでも負けん気を発揮

徐々に仕事ができることを周りが認め始め、

初めてアントルメッチェ(付け合わせ)の担当に抜擢された

その日は、猫の手も借りたいほどの忙しさだった

木下は忙しさにかまけて、

完全に温まっていない付け合わせを出してしまう

「日本ではこの程度で温まったとなるのか!お前は出ていけ!」

「すみませんでした。もう一度やらせてください」

「我々のレストランは星付きの有名レストランだ。今日来ていたお婆さんは、孫の誕生日に店を予約していたんだ。そんな思いの人に冷めた料理を出してみろ!お客様はみんな特別な思いで料理を楽しみにしてるんだ。お客様のことを考えろよ!」

一食一食に全力をかけて料理を届ける

この22年前に教わったことが、木下の信条となっている

その後の働きでシェフたちの信頼を勝ち取り、

フランスで得た経験を日本に持ち帰る

帰国後、フランス料理店オーバカナルから声がかかり、

そこで数年間修行、料理人として名声を上げた

 

●36歳でオーナー店を出店

名前は、オー・ギャマン・ド・トキオ

直訳すると東京のいたずら小僧

(2278)

スポンサード リンク

昭和の名人と言われた桂枝雀を師匠に持つ

幼少期を大阪市住吉区我孫子で

両親と家族3人仲良く暮らしていた

小学校4年生ころ、父はサラリーマン、

タクシーの運転手、屋台のうどん屋と職を転々と変えていた

そして父は、大のギャンブル好き

そのことで両親は、いつもケンカしていた

 

●母の失踪

小学校6年生になったばかりの5月の

連休が始まる前の三者面談が行われた

「母ちゃん、俺 友達と遊んでから帰るわ」

「じゃ おかあちゃん先に帰ってるから。きぃつけて帰ってきぃや」

と言い残し、母は失踪した

理由は父のギャンブルで作った借金、

大学での初任給が5万円の時代、借金が1000万円もあったという

 

●父に殺されかける

母が出ていった後も、父はギャンブルをやめなかった

その結果、借金取りが家に来るように

コツコツ稼げない父が、一発逆転のために策を打った

 

ある日、学校から帰ると玄関に見慣れない水槽があった

「ただいま、おとん、この魚なんなん?」

「ピラニアや。ピラニアの養殖 始めたんや。めっちゃ儲かるで」

酸素を入れなかったため、ピラニアは全滅した

 

この日の夜、体に重みを感じて目が覚めた

すると父が包丁持って馬乗りになっていた

「何しとん?」「すまん、俺と一緒に死んでくれぇ」

「嫌や!ボクまだ死にたない!まだ生きなあかんねん」

「すまんなぁ、子供に刃物 向けるなんて」

結局 父は心中を思いとどまった

そして我に返った父は、翌日 出ていったきり帰ってくることはなかった

12歳にして父にも捨てられた

 

近所のおばさんから面倒見てくれて食べるのには困らなかった

さらに父が時々、ポストにお金を入れてくれた

そんな事情を知らず、昼夜を問わず頻繁にやって来る借金取り

辛いことがあっても明るく笑顔で過ごした

マイナスな境遇を嘆かず、笑いに変える努力

 

●人前で芸をする喜びを知る

ある番組の公開収録へ、

そこで西城秀樹と一緒に歌うことになった

翌日の学校では、とんでもない反響だった

人生は変わった

テレビに出ることに味をしめた雀々は、

15歳でTBS「ぎんざNOW!」に出演

素人ながらレギュラーに抜擢

ある日、部屋でラジオを聞いていると落語が流れてきた

上方落語の「たぬさい」を聞いた雀々は、

「これ俺でもできるんちゃうかな」と思った

録音した「たぬさい」を紙に書き起こし独学で練習

そして同級生の前で披露した

すっかり自信をつけた雀々は、

素人が参加できる演芸番組で「たぬさい」を披露

するとプロの審査員からも絶賛

そして雀々は、将来 落語家になろうと決意した

 

●桂枝雀に弟子入り

師匠に桂枝雀を選んだのは、ご飯を食べさせてくれそう、だったから

15歳のときに枝雀師匠に弟子入りを志願

しかし、断られた

「働きながらでも定時制に通える。卒業してから また来なさい」

雀々は師匠の言いつけを守り、仕事をしながら定時制の高校へ進学

1年が経った頃、師匠の楽屋に呼ばれ、1977年6月1日、弟子入りした

雀々という名前は、枝雀が誰かに付けたかったという秘蔵の名前だった

1981年、ABC漫才・落語新人コンクール最優秀賞を受賞

レギュラー9本、月収200~300万稼いだ

 

●2002年、雀々の楽屋に訪ねて来た母と再会

(1012)

日本人初の女性プロゲーマー:百地裕子

夫の百地祐輔もプロゲーマー

2010年、レディース大会 優勝

2011年、シンガポール大会 準優勝

2013年、東京ゲームショウ ベスト8

互いに格闘ゲーム大会で優勝経験があるトッププレイヤー

元々ゲームが好きで、一番ハマっていたのは大学生の頃

バイトもゲームセンター、バイト代もゲームにつぎ込む生活

2011年からアメリカのプロゲーム団体に所属

前職の営業職と比べると年収は約3倍

 

その収入源は、

・スポンサーからの収入

大会で上位に入賞、もしくは注目される活躍をすると

スポンサーから声がかかる

2011年に国内のトッププレイヤーを倒し、

その動画をアメリカのプロ団体が観て、スカウトされた

契約形態はそれぞれだが、百地の場合は、月給制

 

・世界のゲーム大会で賞金を稼ぐ

夫の百地祐輔は、世界大会で2度優勝している

その優勝賞金が、400万~500万円くらい

 

・プロゲーマーは、海外でアスリートビザが取得できる

 

・1日10時間の練習

(1452)

スポンサード リンク