あの芸能人の過去」カテゴリーアーカイブ

ダレノガレ明美の母は、美人なイタリア人

1人目の夫との間に長女と長男、

2人目のブラジル人と日本人のハーフの夫との間に次男とダレノガレ明美

現在は2度の離婚を経て、3人目の日本人夫と再婚

・母は、ブラジル育ちのイタリア人なのにサッカーが嫌い

週末はテレビの前から離れない父親の「飲み物を持ってこい」や

「飯を持ってこい」などの用事を頼まれ、

全く外出できないためサッカーが大嫌いになった

・母は、映画が嫌い

テレビで放送していたセクシーなシーンを

しばらく観ていただけで離婚届を突きつけるほど

 

●嫉妬と円形脱毛症

ダレノガレが生まれてすぐに日本で暮らし始めた

しかしその直後、両親が離婚

父がいない寂しさからいつも母に甘えていた

3歳の時に、母が現在の父と再婚

小学4年生の時に、年の離れた姉が子供を産んだ

以来、家族の関心が姪っ子に注がれるようになると

両親を奪われたと思い、甥っ子に対する嫉妬が芽生えた

そして髪の毛が徐々に抜け始め円形脱毛症に

頭の半分ぐらいが剥げてしまい、カツラを購入した

髪の毛が抜けてしまうのは自分の弱さにあると気付いてからは、

心を強く自立して成長することに徹し、中学3年生の頃には完治した

 

●67㎏の肥満時代

肥満のコンプレックスは、異性の冷たい態度がきっかけ

ソフトボールのキャッチャーとして活躍していた中学時代

部活を引退した3年生の時、男子から「おいデブ!」

「えっ私デブ?」「学校内じゃお前デブって有名だよ!」

その時のあだ名は、歩くダルマ

クラスの女友達にも「私ってデブなのかな?」と聞き、

「えっ全然太ってないよ」と言ってくれたが、

少しすると女子の間で手紙が回っていた、私の番かと思っても渡されない

奪って中身を見ると“明美って自分がデブって気づいてないよ”

ダレノガレのウエストを予想で書かれていた

 

●失恋

兄が医療系の学校に進学したため、家計がひっ迫

ダレノガレは高校時代、アルバイトを掛け持ち

学費以外の定期代などはすべて自分で稼いでいた

高校を卒業した後、アパレルや歯科助手などの仕事をする中、

21歳の時にスゴイ失恋、見返してやる、を目的に芸能界入りを決意

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ドミニカ共和国に住むメキシコ人の母は、

かつて日本に住み、歌手として生計を立てている

スペイン人と日本のハーフの父親との間に生まれたのが、兄とIVAN

4人目の夫との間には14歳離れた弟もいて歌を歌っている

 

●イジメ

父の仕事の都合で奈良へ移住

小学校時代は、ハーフとオカマをネタにイジメられた

「それはあなたがハーフでみんな羨ましがっているだけだよ」

という母の支えでイジメに耐える事が出来た

中学生でモデルを夢見て、歌やダンスのレッスンに明け暮れた

その後、親元を離れアメリカの高校に進学

 

日本に帰国後、憧れのモデルにスカウトされた

当時は性同一性障害が理解されず、

女性モデルとして活動したい気持ちを押し殺し、

男性モデルとして道を選ぶしかなかった

その気持ちとは裏腹に男性モデルとして頭角を表し始めた

男性モデルを演じながらプライベートでは女性として生活していた

2006年には念願のパリコレデビューを飾った

しかし男性を演じれば演じるほど本当の自分とのギャップが埋められなくなり、

精神のバランスが崩れたIVANは、失踪

 

●失踪

仕事も家も捨て所持金ゼロのホームレス状態に

路上生活は3ヵ月にも及んだ

ドミニカに住んでいた母は、IVANと連絡が取れなくなり来日

全く情報がない中、日本に来て2日目でIVANと出会えた

そこは、いつも遊んでいた公園だった

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●両親のなれそめ

愛媛で公務員をしている父が26歳の時、フィリピンに遊びに行き、

レストランで働いていた17歳の母に声をかけ連絡先を聞き出した

何回かフィリピンを行き来していた間にラブリを身籠った

両親に挨拶して結婚して日本に一緒に帰国したという

 

●幼少期

授業参観を知らない母は、派手な服装で来るので とにかく恥ずかしかった

母がフィリピン人であることで偏見を持たれぬようにと

両親は日本人としての礼儀や作法を厳しく躾けた

 

●不良少女

しかし親心は娘に届かなかったのか、やがて両親に反抗心が芽生え始め、

中学に入ったラブリは突然 豹変した

携帯電話の料金は 毎月10万円

 

そして反抗期はエスカレートし、中学2年で家出

3日後、両親が近所のスーパーで買い物しているラブリを発見

車に乗せて無理矢理 家に連れて帰ろうとしたところ、

走っている車から飛び降りて脱走

父は車をUターンさせて再度 ラブリを捉まえた

 

家族会議でラブリは母に「親だと思っていない!干渉しないで!」と浴びせた

 

当時 そんなラブリを見て育った白濱亜嵐は、

「お姉ちゃんみたいにはなりたくない」と

姉を反面教師に反抗期を迎える事はなかったという

 

●18歳のお遍路めぐり

実家の愛媛で暮らしていた18歳の時

ある日 突然「行かなきゃ!」と思い立ち、お遍路めぐりを始めた

父の車を盗み、1か月かけて四国八十八カ所を全て回りきった

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1972年「恋する季節」でデビューした西城秀樹

翌年「情熱の嵐」が初のトップ10入り

一躍、トップアイドルの仲間入りを果たした

その後もヒット曲を連発

デビューから6年、「ヤングマン」との出会いを果たす

 

CM撮影でロサンゼルスに行った時、

ホテルのラジオをから偶然流れてきた曲が

ヴィレッジピープルの歌う「Y.M.C.A.」

 

この曲を是非日本語で歌ってみたい、

そう思った西城秀樹は帰国後、スタッフに提案した

しかし、スタッフは難色をしめす

当時、外国曲のカバーは売れない定説があり、事務所は猛反対

そこで日本語の歌詞をつけコンサートで歌ったところ、会場は大盛り上がり

ファンからテレビ局やラジオ局に「ヤングマン」のリクエストが殺到した

 

あわてた事務所は急きょレコード化を決定

しかしこの時工場では次の新作の制作に取り掛かっていた

事務所は工場に作業を中止させ、ヤングマンの制作を依頼

いきなりの作業変更に工場は怒り心頭

作業は全く止まってしまった

発売日まで20日を切っていた

 

西城秀樹は当時、神奈川県大和市にあったビクターのレコード工場に向かった

「どうしてもこの曲をレコードにしたいんです。お願いします」

一人一人に頭を下げ、中庭で「ヤングマン」を聞いてもらった

西城の熱意が伝わり、レコードプレス作業が再開、

「ヤングマン」は無事完成した

 

「ヤングマン」は売り上げ総数80万枚を記録し、

5週連続オリコン1位を獲得

●西城秀樹が歌う「Y.M.C.A.」は、Young Men’s Christian Associationの略

「Y.M.C.A.」とは、キリスト青年会をさす

Young Men’s Christian Associationの略

 

アメリカで生まれた曲を日本語に訳す時に

「Y.M.C.A.」を「若いうちはやりたい事 何でもできるのさ」

「Young Man Can do Anything」と意訳した

 

ちなみに西城秀樹は、

「Young Man’s Creative Action」と独自に解釈している

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CanCamの元専属モデル:梨衣名は、中国の貧しい農村で育った

本名は、李チェンイ

故郷は中国 山東省にある菏洚(ファーツァー)の李村

 

近くの集(じ)と呼ばれる青空市場では、

街で仕入れたモノや自ら作ったモノを皆で持ち合う

未だに物々交換も行われているという

 

村人全員が親戚で苗字は全員が李、そこから李村と呼ばれている

正式な地名や番地もない

現在では電気もようやく通り、少しずつ発展も遂げている

水道は整備されておらず

青空蛇口と呼ばれる井戸から生活に使う水を組んでいる

 

ガチョウ、ニワトリ、大量のロバを飼育して生計を立てている

 

トイレには屋根が無く、骨組みだけの便器にまたいで用を足す

下水はなく糞尿はスコップで運んで自ら処理をする

 

当時の梨衣名の大好物は、セミの唐揚げ

味は香ばしくて甘くて美味しいらしい

 

村ではみな、布で作った靴で生活している

ハイヒールを履いて帰郷したら

その足跡を見た村の人たちは、

新しい田植えの道具だと興奮していた

 

ロボット工学を研究していた父に付き添って来日

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