あの芸能人の過去」カテゴリーアーカイブ

爆報!THEフライデーで紹介

18歳でモデルとしてデビューした歌手:石川セリ

1977年に発売した「♪ダンスはうまく踊れない」が大ヒット

夫は歌手の井上陽水

この曲は井上陽水が石川セリの木を引くために目の前で作曲した

そのご陽水との間に3人の子供が誕生

陽水の妻として福岡県でラジオ番組を持つ

●実の父に捨てられた…と思っていた

1952年、神奈川県相模原市に生まれる

長女で5人兄妹、日本人の両親に可愛がられて育った

しかしセリだけがホリが深く外国人風の顔立ち

母は日本人にしては目鼻立ちが整った美形だった

18歳の時、家政婦の一言ではっきりした

「セリちゃんも18歳か…1人だけお父さんが違うのに頑張ったね」

母に問うと「本当の父親はアメリカ人なの、あなたはハーフなの」

 

母親は米軍施設でタイピストとして働いていた

セリは米軍兵士:アーサー・ダイアスとの間に生まれた

しかしアーサーには アメリカに すでに婚約者がいた

そしてアーサーはセリと母親を残し、日本を去った

1958年、母は日本人男性と再婚

物心のついていないセリは父の事を隠して育てられた

セリは父への想いを封印して一人で生きる事を決意、家を出た

18歳でモデルビュー、19歳で歌手デビュー、25歳で井上陽水と結婚

そんなセリに2004年、51歳の時、想わぬ形で実父と出会う

セリは急性大動脈解離で緊急搬送された

意識が朦朧とする中、必死に励ます夫の声だけが聞こえていた

5年生存率70%の難しい手術

手術は成功したモノの合併症など緊迫した状態が続いた

さらに整体に麻痺が残り、声が出なくなった

生と死の境をさまよっていたセリが病室で眠っている時、

「頑張れセリ」目の前に突如 軍服を着た父:アーサーが現れた

この体験は3日 続いた

するとその体験を境にセリは徐々に回復

その日以来、父の事が頭から離れない…

7年後、58歳のセリは父の居場所を突き止めた

父:アーサーは既に亡くなっていた

セリはお墓参りだけでもとアメリカに飛んだ

父の自宅に訪ねると「石川です」と名乗った

すると「あなたセリでしょ?」

アーサーの子供たちは皆 セリの存在を知っていた

父:アーサーは子供たちにセリの話をしていた

「いつか会う日が来るから、その時は兄弟として暖かく迎えて欲しい」

アーサーは左腕にセリの名前を彫り、亡くなるまで心配していた

そして父が亡くなったのは、2004年9月

それはセリが生死の境をさまよい、父が夢に現れた日と同じ日

セリはアーサーの形見を譲り受け、お墓参りを終えた

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爆報!THEフライデーで紹介

1985年、ビートたけしの幼少期を描いた自伝ドラマ「たけしくん、ハイ!」

その主演を務めた子役が、当時13歳の小磯勝弥

無名の新人ながらビートたけし役を熱演

ドラマ終了後、仕事が激減、芸能界から姿を消した

 

●「たけしくん、ハイ!」の子役:たけしくんは今…文字校正のバイト生活を送っている

 

現在、彼は川崎市にある2階建ての1戸建てに暮らし、

未だ独身、寂しい独身生活を送っている

 

芸能界を引退した後、コンサートの警備、ガソリンスタンド、

惣菜店、ゴルフショップの店員など様々なバイトを転々

 

13年前から情報雑誌の誤字脱字を

見つける文字校正のバイトで生計を立てている

 

主に住宅不動産情報の広告を担当

 

1日6時間、週4ペースでバイトを続けている

構成のバイトの給料は1ヵ月、多い時で30万円

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南野陽子のぶっちゃけ

 

●歌手になるつもりは一切なかった

「吐息でネット」や「はいからさんが通る」などリリースしたが、

歌手になるつもりは一切なかった

 

●周囲の早とちりで仕方なく上京

実は神戸でスカウトされた時も、名刺を貰って喜んでいた程度だった

反抗期だった南野は、別に上京の事ではなく

「私の人生は私が決めるの!」と両親に啖呵を切った

その後、両親は学校に娘の芸能活動への想いと、

部屋で段ボールに洋服を詰めていたので家出をするようなんです、と相談

本当は夏物と冬物の洋服を入れ替えていただけだった

間違えて両親が学校に相談したら、担任の先生から生徒に

「南野さんは歌手になりたいらしい」とお別れのカードを書いてくれた

上京してレコード会社のオーディションに連れて行かれた

人前で歌ったことが無いから不合格狙いで

「歌えません」と答えると、オーディションで残ってしまった

 

●デビューシングル「♪恥ずかしすぎて」

レコーディングで歌うのも恥ずかしいので、スタッフに取り囲んでもらい、

一緒に歌いながら、一人抜け、一人抜けと最後に残ったところで録音された

デビュー曲として用意された「♪天使のハンカチーフ」

その恥ずかしがっている様子を見ていた作詞家が「♪恥ずかしすぎて」に変更

なのでデビューしてからずっと辞めたかったという

 

●常に8割ぐらい芸能界を辞めたい

仕事はしたいが、正直人に見られたくない

 

●スケバン刑事のヨーヨーは、駄菓子屋で売っているヨーヨーをスプレーで塗っただけの安物

駄菓子屋で1個100~200円で売られているヨーヨーに

シルバーのスプレーで塗り、赤いプレートを貼っただけのもの

もちろん鎖では戻ってこないので、

指の輪っかだけに鎖が付いていて、その先は普通の糸だった

桜の代紋が出るヨーヨーは、化粧のコンパクトを改造

グローブはゴルフショップで買ってきた既製品の手袋をハサミで切っただけ

 

●家に帰れず楽屋に寝泊まり

撮影が始めると楽屋にベッドを入れてもらって、そこに住んでいた

洗面器、シャンプー、リンスを持って、

各テレビ局のシャワー室で体を洗っていた

 

●ファーストキスが哀川翔

忙し過ぎて恋愛する時間もなかった彼女は

女性にとって最高の思い出になるはずのファーストキス

その相手が映画の共演者:哀川翔だった

 

●南野陽子は遅咲きの苦労人

デビュー曲「恥ずかしすぎて」はオリコン54位が最高

自分でテレビ局に売り込んで「スケバン刑事2」の主役になった

 

●自宅前でファンが泊まり込みの警備

ある日の夜、仕事を終え帰宅すると

自宅マンションの前に総勢20名のむさ苦しい男たちが寝袋で寝ていた

怖いのでマネージャーに話を聞きに行かせると

「ナンノの家に不審な人物が現れないようここで寝ています。異常ありません」

 

●ファンがかってに婚姻届を提出

ある日、パスポート取得のため、戸籍謄本を取り寄せると、

見知らぬ男性と結婚していた

南野陽子の熱烈なファンが

結婚に必要な個人情報を調べ上げ、勝手に婚姻届を提出

当然、すぐに無効の手続きをしたが、彼女の戸籍には×が残った

 

●彼氏に合図

「ベストテン」や「ミュージックステーション」などの

歌番組の収録中に交際していた彼氏に合図を送っていた

工藤静香の「嵐の素顔」の印象的なフリや靴を一階脱いで履くなど

 

マネージャーを怒鳴り散らす天狗だった

 

ノリで結婚を決断

 

●阿部寛いじり

映画「はいからさんが通る」でデビューした新人俳優:阿部寛

身長が大きいので弁当を5個与えて、

「全部食べないとやらない」といじり倒していた

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爆報!THEフライデーで紹介

●ガンで余命半年のレオ:真夏竜を救ったタロウ:篠田三郎

1973年、「ウルトラマンタロウ」の放送が開始

ウルトラマンタロウを演じたのが、篠田三郎

その後も、NHK大河ドラマをはじめ、数多くの作品に出演

そんな篠田が命を救ったのが、ウルトラマンレオを演じた真夏竜

 

2004年、名古屋で舞台公演中だった篠田に妻から電話が…

「実は真夏さんの奥様から電話があって真夏さんが胃がんになったって…」

「えっ?」「先生からは余命半年と…病院を数件回ったそうだけどどうにもならず困っているみたい」

 

真夏竜は、半年前から腹痛を訴えていた

当初は肺炎と診断されたため薬でその痛みを抑えていた

しかし数日前に突如、舞台で倒れ、病院に運ばれた

「病名は進行性の胃がんです。ステージは3Aです」と宣告

俳優:真夏竜夫婦は胃がんが得意な病院を必死に探したが、

良い病院に巡り合えなかった

真夏竜の妻は藁もつかむ思いで篠田の妻に電話してきた

 

あいつは俺の弟だ。俺が救わないと、

タロウとレオを演じた2人はプライベートでも兄弟のような仲

デビュー当時は同じ事務所に所属し、

2歳年上の篠田は真夏を弟のように可愛がっていた

そして子供が同級生ということもあり家族ぐるみの付き合いをおくっていた

 

篠田は名古屋の舞台中にもかかわらず、昔から交友があった医師に相談、

セカンド・オピニオンを通じて診察、執刀してくれる病院を見つけた

篠田が探し当てたのは、

過去に多くのがん手術の実績を持ち術後の影響を考える信頼性の高い大学病院

篠田はすぐに真夏に連絡を入れた

「執刀してくれるとても良い病院を見つけた。私を信じていいからそこへ行け」

「本当にありがとうございました」

翌日、真夏夫婦は篠田が紹介してくれた病院を訪れた

 

するとそこには篠田の姿が…

篠田は病に侵された真夏を勇気づけるため名古屋から駆け付けた

井の全摘出が絶対と言われた真夏だったが、末期の胃がんではなかったため、

開腹手術で胃2/3を摘出し手術は成功した

 

真夏竜は今…俳優業の傍ら、妻が営むバーで読み聞かせのイベントを行っている

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1974年、甲斐バンドでデビューした甲斐よしひろ

 

●大物カメラマンに盾突いた甲斐よしひろ

デビューした1974年、ある有名雑誌の写真撮影、

カメラマンは、杏里、浜田省吾、吉田拓郎など

数々のアーティストを撮ってきた大物カメラマン:大川奘一郎

彼が新人を撮ることさえ異例だった

「オマエらジャンプして」「ジャンプ?」

まるでアイドルのようなポーズを注文

デビュー仕立ての甲斐だったが、

「僕たちジャンプとかするようなバンドじゃないんで、できません」

「新人のくせに 何言ってんだよ。オメェこの業界で食えなくしてやるぞ」

この一言に甲斐は、100万円近くするであろうカメラを破壊

胸ぐらを掴み「5年後、どっちが生き残っているか勝負してやろうじゃねぇか!」

 

その後、甲斐は言葉通り「HERO」などのヒット曲を連発

未だにトップを走っている

 

●同級生は、漫画家:小林よしのり

「おぼっちゃまくん」「ゴーマニズム宣言」の漫画家:小林よしのり

と甲斐バンドの甲斐よしひろは小学校、中学校、高校とずっと一緒

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