あの芸能人の過去」カテゴリーアーカイブ

バナナマンの決断は金曜日で紹介

●モデル:前田典子を救ったアラフォーブーム

 

モデルデビューしたのは19歳の頃

関西のテレビ番組「エンドレスナイト」に

素人レポーターとして出演したのがキッカケ

最初は地元 大阪で活動を続けていたが、21歳で単身上京

すると「CanCam」や「with」など数々の人気雑誌に登場し、

一躍トップモデルの仲間入りに

 

32歳の時、今のご主人と結婚

当時のモデルは結婚したら引退するのが普通だったが、

前田はモデルを続けた

するとこれまで普通に受かっていたオーディションなど落とされるように

30代も後半になり仕事は激減した

 

しかしその後、空前のアラフォーブームが到来

「STORY」などの大人向けファッション誌が数々創刊

前田をはじめ、三浦りさ子や黒田知永子らアラフォーモデルが大活躍

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誰だって波瀾爆笑で紹介

 

●中尾彬と池波志乃の結婚秘話

1942年、千葉県木更津市で生まれた中尾彬

酒店を営む実家の5人兄弟の長男

ある日 家の近所で映画の撮影が行われる

その現場を見て感動した中尾は、いきなり主役の長谷川一夫に

「俺も役者になりたい」と直訴

長谷川は「大学を出たらいらっしゃい」

1961年、武蔵野美術大学に入学

役者を目指すため日活ニューフェイスのオーディションを受験

4000人以上が応募する中、見事合格

その後 役者に専念するため大学を中退し、数々の映画やドラマに出演

 

1955年、東京都西日暮里に生まれた池波志乃

祖父は落語の神様と言われた5代目 古今亭志ん生

父はいぶし銀の芸の持ち主:10代目 金原亭馬生

叔父は3代目 古今亭志ん朝

名門の噺家一家に生まれた志乃は、

中学生になると日舞、三味線、長唄など芸ごとに興味を持つように

芸の道を究めたいと女優になる事を決意

15歳で俳優養成所に入学、1973年 新国劇に入団し、

先輩女優に付き人しながら演技を勉強

その後、テレビドラマにも出演、高い演技力が評価され出演オファーが殺到

 

●出会って3ヵ月で結婚

2人が出会ったのは、志乃が22歳の時

志乃が初めてヒロインを務めた時代劇で共演

13歳年上の中尾の印象は「これがあのプレイボーイの中尾彬」

第一印象は決して良くなかったが、ある物が2人を急接近させる

当時 入手困難だった幻の日本酒:越乃寒梅

撮影の合間、越乃寒梅を飲んだことを周囲に自慢していた中尾

するとお酒好きの志乃が「私はいつでも越乃寒梅が飲めるお店知ってるわよ」

こうして2人でそのお店に飲みに行くことに

お酒好きの2人はすぐに意気投合

2軒目に彬を連れて行ったのは、芸者たちを呼んでのお座敷遊び

その芸者は志乃の友人で、

この子なら男を見る目も確かだろうと品定めをお願いしていた

「絶対やめなさい」という芸者は一人もいなかった

こうして晴れて交際をスタートさせた2人

中尾は2回目のデートでプロポーズ

1978年3月14日、2人は出会ってわずか3ヵ月で結婚した

 

●結婚以来続けている中尾家の独特のルール

1、妻は夫より早起きし 寝顔は絶対に見せない

中尾の帰りがどんなに遅くなろうとも玄関の鍵を開け出迎える

 

2、夕食には手書きのお品書きを用意

中尾家の夕食には懐石料理のように一品ずつ出てくるのだが、

志乃がそのメニューを考え、お品書きを用意する

 

3、妻は夫の財布の中身をチェックし、常に補充する

彬が外で遊ぶとき恥をかかないよう常に志乃が財布のお金を補充する

 

4、朝食は和食と洋食を両方用意する

 

5、テレビのチャンネルは妻が変える

「4にして」と中尾から声がかかったので

「はい」と台所からテレビまで移動してチャンネルを変えてしまった

付き人を経験していたので、おもわず体が動いてしまった

 

6、給料袋は「ご苦労様でした」と神棚へ

実は これは全て志乃が始めたこと

 

志乃が自然と行ったことが習慣となり結婚からずっと続いている

 

●夫婦を襲った病…闘病生活

2006年9月、沖縄の別荘にいた志乃の体に異変が…

起きようとしてもまぶたが開かない

さらに手足が痺れはじめ、救急車で搬送

そこで告げられたのは、フィッシャー症候群

免疫機能の異常により目が動かなくなり手足が痺れ、歩けなくなってしまう病

志乃は治療の為、沖縄の病院に緊急入院

東京で仕事をしていた中尾は、翌日すぐに駆け付け看病につとめた

そして志乃の母が、がんに侵され、当時住んでいた千葉県の病院に入院

中尾は闘病中の志乃に代わって志乃の母に食事を作り看病

仕事をしながら沖縄と千葉の行き来を繰り返す

しかし2006年11月、志乃の母:治子さんが他界

深い悲しみの中、志乃を励まし続けた中尾

2007年3月、志乃の体は回復し、夫婦でメディアに登場

その4日後、今度は中尾を病魔が襲う

仕事先のホテルで中尾が倒れているのをマネージャーが発見

緊急搬送された中尾の病名は、横紋筋融解症

筋肉が溶けていき放置すれば腎臓などの機能が失われ死に至る病

志乃が医師から告げられた生存率は20%

予断を許さないなか集中治療室で懸命の治療が施され、一命をとりとめる

志乃の懸命な看病で順調に回復した中尾は、3か月後 無事に復帰を果たした

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誰だって波瀾爆笑で紹介

不登校だったママシンガー:相川七瀬

1975年、大阪府大阪市 生まれ

2人姉妹の長女として育った七瀬は、おとなしい女の子だった

部屋にこもって本を読んだり、ひとり人形で遊ぶような内気な性格

何よりも好きだったのは、歌うこと

人前に出る事は苦手だったが、密かに歌手になる事を夢見るように

中学に入ると両親が離婚

転校すると周りからのイジメにあい不登校に

中学に入ってから数々のオーディションを受けるも全て落選

3年生になったある日、これでダメだったら諦めよう…

最後の可能性にかけオーディションで

大好きな工藤静香の曲を熱唱するも不合格

 

きっぱりと歌手の夢を諦めた七瀬は、高校へ進学

そんな時、東京から織田哲郎が大阪の七瀬のもとを訪ねてきた

織田は七瀬が最後に受けたオーディションの審査員のひとりだった

「君 歌手にならないか?」

アイドルのオーディションなのに

眉間にシワを寄せて、叫び倒して帰っていった七瀬が印象的だった

織田の誘いに七瀬は「もう歌手はやりません。興味がなくなりました」

オーディションに落ち続けていた七瀬は自身が無くなっていた

 

しかし高校2年生の時、学校に馴染むことができず中退

1度、断ったにも関わらず今度は自ら織田に連絡

その後、本格的なレッスンを受けるために上京

そして翌年、20歳の時に念願の歌手デビューした

 

●結婚

2001年、26歳の時、一般男性と結婚

その年に長男が誕生、2007年に二男、2012年に長女を出産

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●シノラー:篠原ともえ 空白の10年

 

デビューは1995年、その翌年「LOVE LOVEあいしてる」の

コーナー「しのはらともえのプリプリプリティ!!」で

ハイテンションキャラにド派手なファッション、

大物芸能人の楽屋で暴れまわりブレイク

 

街には篠原のファッションを真似たシノラーが溢れ、社会現象に

 

明るい篠原以外を誰も見たくない、そんな思いから

東京都立八王子工業高等学校もランドセルを背負い、シノラーで通学した

 

しかし「LOVE LOVEあいしてる」の終了と共にシノラーブームは終息を迎えた

彼女はテレビから姿を消した

 

元々シノラーファッションは、すべて自らデザインしていた

時間に余裕が出来たので洋服のデザインを学ぶため

文化女子大学短期大学部へ進学

 

松任谷正隆のラジオ番組に出演した際、

「もしユーミンに衣装をデザインするとしたらどんなデザインにする?」

と質問されたので、その場でデザイン画を描いてプレゼンした

「面白そうだね。じゃあ やってみる?」

ユーミンのコンサート衣装のデザインを担当する事に

 

●星を観る宙ガール

子供の頃から星を観るのが好きで高校の天文部に

現在、星のソムリエを受講している

星の幅広い知識と技能を有する資格

 

●御朱印集め

寺社で参拝した証として頂ける御朱印を集めている

洋服をおそろいの御朱印ケースを制作

 

●10年来のボーイフレンド:ショーン・レコン

シノラー時代に知り合い、10年の交友を続けている

篠原がニューヨークに留学した際も一緒に美術館や映画館行ったり…

ある日、ディナーでダコタハウスに招かれた

「♪イマジン」を作曲した白いピアノを篠原は知らずに、

「キレイなピアノ!」とテンションが上がり勝手に弾いた

その後、ショーンがそのピアノでイマジンを弾いてくれたという

今でもチャットでコミュニケーションをとっている

 

●母親の故郷は絶海の孤島:青ヶ島

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●百獣の王:武井壮の知られざる半生

1973年、東京都葛飾区生まれ

二人兄弟の二男として誕生した壮は、幼い頃から体を動かすのが大好き

やる事といえば通学路での坂道ダッシュ

そんなある日、ふとタイムを測ってみると

何故か日によって結果が変わる事に気付く

何でいつも同じように走れないんだろう?

不思議に思った壮は、体育大学に通う近所のお兄さんに理由を聞きに行く

そこで渡されたのは、スポーツ科学の専門書

小学生には難しい内容だったが、

真面目だった壮は、ひとつひとつ調べながら勉強していった

そして辿り着いた答えは、

イメージ通りに動ければ どんなスポーツでも活躍できる

自ら生み出した理論を実践するため日々トレーニングに励む

 

中学校では野球、

高校ではボクシングとスポーツに打ち込む青春時代を過ごした

活発な少年であったが幼い頃に両親は離婚、

そんな家庭環境が彼の心に暗い影を落とした

武井少年の心の支えになったのが、2歳年上の兄:武井情だった

 

兄は俳優を目指し、坂上忍の付き人をしながら修行を始めた

俳優:金山一彦が可愛がっていた後輩役者

「僕は面倒見れないから忍ちゃんの所入れてあげてくれない?」

と紹介されたのが武井壮の兄:情だった

情は坂上忍の鞄持ちをしながら役者の修行を始めた

ドラマなどに少しずつ出るようになった頃、がんで亡くなった

ある日突然、体調を崩し、病院で行ったところ、小腸がんと診断

入院中は病室の手配や身の回りの世話まで行っていた坂上

情の気持ちが沈んでいると大好きな野球に誘い出し、元気づけた

仲間に伝えた「ありがとう」の一言が情の最後の言葉だった

その後、坂上は情以上に愛情を注げないという理由で

付き人をつけるのを辞めている

 

「俳優になってたくさんの人に見てもらうこと」

兄の夢を叶えるかのように武井は必死に陸上競技に打ち込んだ

初めての大会で10秒9という記録を出し、周りから期待されるが、

陸上にはとんでもなく大変な競技がある事を知り、十種競技にチャレンジ

わずか2年半で日本選手権を優勝、

オリンピックも夢ではなかったかもしれない…

 

しかし武井は大学卒業と共に陸上を辞めてしまった

「優勝して次の日街を歩いても誰も俺のこと知らない。これって何の意味があるのかな?」

 

壮はプロゴルファーになるため

雑誌で見つけたゴルフの特待生募集に応募

合格すればアメリカ留学できるが、

世界ジュニアチャンピオンなど有望な選手の中から4人しか選ばれない狭き門

壮はゴルフは未経験

しかし身体能力を測るテストで他を圧倒し、結果 合格しアメリカ留学へ

クラブを持ったこともない壮だったが、

身体能力の高さから驚異的なスピードで上達

わずか10か月後にはプロになれる腕前に成長した

 

森の中でジョギング中、3mを超える巨大な鹿と遭遇

壮は直感的に「殺される」初めて感じた死の恐怖

「ゴルフで成功しても死んだらしょうがない、強い人間にならないと」

そこで、あらゆる動物と闘うイメージトレーニングを始めた

どんな状況でも勝てるよう動物の生態を徹底的に調査

アスリートの壮が、百獣の王を目指した瞬間だった

 

象を倒すためには、膝に猛スピードで石をぶつける事が有効と分かると、

肩を鍛え、140kmの剛速球を習得

そんな壮に目をつけた台湾のプロ野球チームからコーチの依頼が

そんな生活をする壮に興味を持った人物が、ピエール瀧

壮がある日、麻布のバーでミルクを飲みながら犬用のガムを噛んでいると

それを見たピエール滝が

「お前 面白いな!ウチの番組に出ない?」とオファー

スペースシャワーTVの「パシリFINAL」

森山直太郎がホノルルマラソンを目指すトレーナー役として参加

これに味をしめた壮が、新たに目指したのが、芸能界のスーパースター

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